
私の親友はオーストラリア人。「カーペット」というあだ名の理由は、あまりにも毛深かったからだ。
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TL;DR
オーストラリアの音楽クラスで出会い、深い絆へと発展した友情を描いた感動の回想録。著者の亡き母に対する親友の心温まる追悼の言葉が胸を打つ。
Reading the 日本語 translation
私の親友はオーストラリア人で、名前は John です。イタリア系の John は、本名が「Giovanni」らしい。マフィア映画のキャラクターみたいなそのカッコいい名前とは対照的に、彼は体毛が濃すぎて、みんなから「Carpet」と呼ばれていた。日本語でも英語でも、そのキツさが100%伝わるひどいあだ名だ。John に対する最初の印象は、「こいつは一匹狼だ」だった。
John と出会ったのは中学2年の時。1年間の留学中だったが、英語が話せず友達は一人もいなかった。ある日の音楽の授業で、先生が当時一番嫌いだった言葉を言った。「グループを作りましょう」。どのグループにも入れない背の低いアジア人の子供だった私は、先生によって無理やりグループに入れられた。そのグループは、クラスで特に人気があるわけでもない4人の男子で、John もその中にいた。当時の John は、ビートルズのポール・マッカートニーみたいなキノコヘアだった。
他のグループが男女で楽器を演奏して和やかにやっている横で、私のグループは誰が一番大きな音でドラムを叩けるか競争していた。まるでビートルズだが、頭脳はゼロだった。John は私にドラムスティックを渡し、背の低いアジア人の子供でもわかる英語でやることを教えてくれた。「強く叩け」。スティックを受け取り、力の限りドラムを叩いた瞬間、世界が色に変わった。オーストラリアに来て初めて、楽しいと感じた瞬間だった。
それから、一緒に鬼ごっこをしたり、グループワークに加えてもらったりして、留学生活が楽しくなった。14歳の誕生日、John たちが家に来てくれて、母はようやく友達ができたと大喜びしていたのを覚えている。振り返れば、言葉の壁があるにもかかわらず、ためらわずに受け入れてくれた彼らは本当に優しかった。
John はあまり話さない。どれくらい話さないかというと、私よりも話さない。英語は私の第二言語なのに。イタリア人と聞いて、多くの日本人はジローラモのようなダンディで、甘い言葉で女性を口説くイメージを抱くかもしれない。しかし John は正反対だった。彼のイタリア的要素は、毛深い胸と腕だけだった。「イタリアガチャ」があったら、John は完全にハズレだ。
しかし、John は10年生で初めて彼女ができた。それまでは「女と遊ぶやつはつまらない」と強がっていたのに、彼女ができた日から休み時間は彼女を膝に乗せてゼリーを食べさせていた。人間ってこんなに変われるのかと衝撃を受けたのを覚えている。でも、全然羨ましくなかった。決して強がりではない。なぜなら、John の彼女は「白人だった頃のマイケル・ジャクソン」にそっくりだったからだ。その「キング・オブ・ポップ」との恋愛は、半年も経たずに終わった。
John の転機は11年生の時だった。日本語クラスの生徒対象の学校旅行で日本に行ったのだ。姉妹校を訪れた時、外国人自体が珍しい日本の女子高生たちは、John とその友達を見て大興奮。名札の裏に LINE ID を書いて渡してきた。John は自国では絶対に起こらないこの「モテ現象」に大喜び。帰りの空港でひらがなの勉強本を買い、LINE をダウンロードした。これが John の WEEB(日本のオタク)への道の始まりだった。
12年生になる頃には、John の WEEB 度は加速していた。夏休みに日本の高校に短期留学し、お土産に BLEACH の斬魄刀を持ち帰ってきた。しかも斬月ではなく、浦原喜助の「紅姫」。いかにも John らしい。この頃、私たちの間では、日本に行くことや日本を好きになることを「John する」と呼ぶようになった。John は動詞になった。少し悲しい話かもしれないが、彼の好みのタイプを聞かれた時、John は「日本人なら誰でもいい」と信じられないほど失礼なことを言っていたので、まあいいだろう。いや、やっぱり John はキモかった。
高校卒業後、私は日本の大学に入るために帰国し、John はオーストラリアの大学に進学した。しかし John の WEEB 度は変わらず、COVID-19 のパンデミックを除いて、ほぼ毎年日本に来ていた。John の滞在パターンは、基本的に東京で3〜4週間過ごすというもの。特に何かをするわけでもなく、ただ時間を過ごしていた。
彼が到着した初日、私は「今日は何するの?」と聞く。すると毎回「わからない」と答える。怖かった。外国に行って、初日から予定がないなんて誰がするんだ?そこで毎回私が John の予定を立てるのだが、それが結構大変だった。なぜなら John は自分が外国人であるにもかかわらず、「日本には外国人が多すぎる」とか「渋谷のマリオカートはダサいからやらない」などと注文が多かったからだ。結局、日本語が全くわからないのに一緒にコメディショーを見に行くなど、贅沢で無意味な日々を何度も過ごした。ちなみに John は日本語がわからないので、笑い声の量だけでコメディの質を感情抜きで判断できる。私は彼を「コメディ・スピードガン」と呼んでいた。
日本人が大好きな John のために、合コンをセッティングしたこともある。女友達の協力で4人で食事をした。女の子たちは親切にも英語で「大学では何を勉強しているの?」「日本で一番良かった場所は?」などと質問してくれた。なんていい子たちなんだ。これはお金を払っても得られない経験だ。
しかし John は、その親切を踏みにじるかのように、全ての質問に「数学」とか「東京」と一言で答え、会話を広げようともせず、ついには口を閉ざしてしまった。合コンの後、私は John に怒鳴った。わざわざ話しかけてくれた女友達に申し訳なかったし、彼の行動力のなさに腹が立った。「なぜ話さないんだ!」と詰め寄ると、John は日本人しか使わないような英語で言った。「ごめん…恥ずかしいんだ。」イタリア人の「ぼっち」を初めて見た瞬間だった。
2024年、母が亡くなった。電話で伝えることではないと思い、John が日本に来て、二人で沖縄を旅行している時に直接伝えた。海の見える道をドライブ中に、母が亡くなったことを話した。気まずくなるかなと思った次の瞬間、
「FUCK!!!」
John が沖縄の空に向かって叫んだ。それは大砲のように、まるで「葬送の礼砲」のように聞こえた。気の利いた慰めの言葉も、慰めのハグもなかった。ただその呪いの言葉が、空を一発撃ち抜くように、私の悲しみを正しく認めてくれた。John が「FUCK!!!」と叫ぶのを見て、私は笑った。そして嬉しかった。自分のために「FUCK」と言ってくれる友達がいることが。
オーストラリアに帰国する前の John の最終日、私は「今日は何するの?」と聞くと、彼は「お母さんの墓参りに行こう」と言った。初日に予定を聞くと「わからない」と言っていた同じ John が、最終日の朝、自然に「墓参りに行こう」と言ったのだ。旅行の最終日。美味しい日本食を最後に食べたいとか、観光したいとか思っていたはずなのに、John はその貴重な時間を、ごく当たり前のように墓参りに捧げることにした。John は私に続いて、墓に線香をあげ、手を合わせた。油断したら泣いてしまいそうで、早く立ち去ろうとしたその時、John が母の墓に向かって、ブロークンな日本語で話しかけた。
「また、来年」
その瞬間、こらえていた涙がダムの決壊のように溢れ出した。これ以上に優しい言葉があるだろうか?音楽室でドラムスティックを渡されたあの瞬間から、私の留学経験の全ては、この瞬間のためにあったのだと確信した。留学したと聞くと、「あの頃に戻れるなら、もう一度留学する?」と聞かれることがある。私は誇りを持って言える。「John に会うためなら、何度でも。」
John は相変わらずで、日本に来るたびにいつも「いつ墓参りに行く?」と聞き、毎回母にブロークンな日本語で「また、来年」と言う。私の親友はオーストラリア人。あだ名は「Carpet」。でもそれは毛深いからじゃない。彼の分厚い優しさが、私の心を温めてくれるからだ。



