僕には中学生になる息子が2人いるのだけど、あまり勉強ができない。
数年前から通知表を見るたびに少し心配はしていたんだけど、勉強の成績以外はなんとなく楽しそうに生活しているようなので、そこまで気には留めていなかった。
それに僕自身、「元気で楽しそうなら、それでいっか」という気持ちで小さい頃から二人の成長を見守ってきたので、いまさら急に「勉強をしなさい」と言う気にもなれなかった。
そんな長男も来年には高校生になる。
いよいよ受験が始まって、このままではヤバいと本人も感じたのか、ある日「塾に行きたい」と言い出した。この夏休みはずっと受験勉強をがんばっていた。
そんな長男、勉強は不得意だけどスケボーが得意である。というか、かなり上手い。ちょっと中学生でこのレベルできんの?ってくらいに上手い。
板、めっちゃ回す。たぶんめっちゃすごい技やってんだけど目視できないくらいに、めっちゃ回す。
小学校4年生の頃からコツコツ練習を続けて、気づけばもう6年近く打ち込んでいる。これは間違いなく努力の賜物である。
一方、次男は一時期、やんわりと不登校になっていた。
「ちょっと体調が悪い気がする」「朝、眠い」「なんとなく今日は……」みたいな感じで、理由も非常にフワッとしている。
こっちもどうしたものかと思いながら、ときどき「ほら行くぞ」と学校まで一緒に歩いたりしていた。
最近は気分が乗っているらしく、普通に学校へ行っている。
なんだったんだろう、半年くらい続いたあのやんわり不登校は…
この次男、とにかく運動神経がいい。こないだはなんか選抜リレーに選ばれて国立競技場で走っていた。ちなみに陸上部とかではない。単純に足が早いのである。
足が速くて、スポーツ万能。何をやらせてもだいたいすぐにできる。
あと、ある日突然「ピアノやりたい」と言い出したので、電子ピアノを与えたら、ずーーーーっと弾いている。誰に言われたわけでもないのに、ずーーーーっと練習して、気がついたらなんか普通に弾けるようになっていた。
スイッチが入ったときの集中力が異常なのである。
「なんか面白そうな大人になりそうだな」という気配がもうある。ただし、その驚異的な集中力が勉学に発揮されたところを、いまだ目撃していない。
ともあれ、二人とも好きなことや得意なことがある。そして何より、元気に過ごしている。
「元気に育ってくれたら、それだけでいい」
僕はそう思って二人の息子たちを見守ってきた。でも最近、この言葉について少し考える。何気なく願っていた「元気に育ってくれる」ということこそ、実はものすごく尊いことなのではないか。
すでにそこにあるから、その大切さを忘れてしまっているだけなのではないか。
だからつい、「元気に育ってくれ【たら】」という言い方になってしまう。
この【たら】には、健康と元気がこれから先もずっと続いていくという、僕の勝手な思い込みが含まれている気がする。
今日元気だったから、明日も元気。今年元気だったから、来年も元気。
今まで元気に育ってきたから、これからも元気に育っていく。そんな保証はどこにもないのに、いつの間にか「元気」は「普通」になる。
健康の大切さは大体損なわれたときにのみ感じるものである。本当は毎日「今日も元気に育ってくれてありがとう」と元気に対して日々感謝を述べ、本当にありがとう、元気と声に出していうくらいに、尊ばなくてはいけない気がする。
そう考えると、元気に限らず、親は知らず知らずのうちに「今そこに、すでにある尊さ」を「普通」として受け取ってしまいがちなのだと思う。
そして「普通」になった瞬間、次のものを求め始める。
元気なら、勉強もできてほしい。勉強ができたら、スポーツもできてほしい。
スポーツができたら、いい学校に行ってほしい。
ひとつ手に入ると、そのひとつを「普通」の棚に置いて、またその上を見てしまう。
もちろん子どもの成長は親にとって嬉しい。できなかったことができるようになるのは、そりゃ嬉しい。
でも、「もっと良くなってほしい」と願うことと、「今がすでに良い」
と思うことは、たぶん両立する。
今がすでに良きであり、そして素晴らしいということを、いつも心のどこかに置いておきたいものである。
閑話休題。
こないだ友人が映画を作ったというので、試写会に観に行った。
『見えない娘』という映画である。
透明人間として生まれた娘を育てる家族の話。
今まで聞いたことのない設定の物語だったのだけど、観終わったあとも、何度もシーンを思い返してしまう映画だった。
見えない娘は3人姉妹の末っ子。母親は亡くなっていて、父親が一人で娘たちを育てている。世間に透明人間である三女の存在を知られるのはまずい。そのため家族4人、離島でひっそりと暮らしている。
この三女、見えないだけで、声は聞こえるし、触れることもできる。そこに確かに存在している。家族はいろいろな工夫をしながら、普通に仲良く、むしろかなり楽しそうに生活している。
3人姉妹もめちゃくちゃ仲がいい。
僕はいままで「普通に見える子ども」を育てる経験しかしたことがなかったが、映画の中には、見えない娘だからこその子育ての苦労や工夫が出てくる。そりゃ大変だろうなと思う。見えないんだもん。どの育児本にも「透明人間の娘の育て方」なんて載っていない。
「透明人間 娘 育て方」で検索しても答えはないだろう。(むしろ今後はこの映画が透明人間の子育てのバイブルになることは間違いない)
物語ではありますが、きっとこのご両親は相当な苦労をしただろうと思った。
でも、肝心の透明な三女。家族に愛情をかけられて育てられたものあってか、ものすごくいい子なんですよ。快活で、好奇心旺盛。茶目っ気があって、優しい。
見えないってだけで。映画を観ているうちに、こっちもどんどん見えない三女のことが好きになっていく。そして観終わる頃には、堪らなく愛おしい存在に思えてくる。
『見えない娘』という、今まで一度も考えたことのないシチュエーションの物語なのに、観ているとどうしたって、「自分だったらどうするだろう」と考えてしまう。
息子が勉強が不得意だったり、ふわっと不登校になったり。
娘が透明人間として生まれてくる場合もある。
もちろん問題の大きさも種類もそれぞれの家庭単位で全然違う。
そして同時に思う。その「問題」の影に隠れて、見えなくなっているものもあるんじゃないかと思う。
子どもはなかなか思ったようには育たない。そういう「足りないもの」は、不思議なくらいよく見える。親だからこそ見つけてしまう。でも、そのすぐ横にある「すでにあるもの」は、案外見えない。
元気であること。笑っていること。好きなものがあること。何かに夢中になれること。やさしいこと。そんなものは毎日そこにあるから、背景になってしまう。
『星の王子さま』に有名な言葉がある。
「大切なものは目には見えない」
『見えない娘』のクライマックスで、三女が新宿で迷子になるシーンがある。
透明人間の子どもが迷子。普通に考えて超ヤバい。こっちは見えている子どもがイオンで迷子になっただけでも冷や汗を滝でかくのに、透明人間の娘が、よりによって新宿で迷子になるのである。大ピンチである。超絶焦る父親に、長女と次女が言う。
「ママが言ってた。目をつぶると、ちょっと見えるんだよって」
そして3人は目を閉じて、三女を探す。すると、暗闇の中に少しだけキラキラしたものが見える。それが三女だった。このシーンはずっと頭に残っている。
大切なものを探すために、目を凝らすのではなく、目をつぶる。
見よう、見ようとするほど見えなくなってしまうものがあって、いったん目を閉じたときに初めて見えてくるものがある。
サン=テグジュペリは「大切なものは目には見えない」という言葉を残した。
でも僕たちは、大人になるにつれて、目に見えるものばかりを数えるようになる。成績。学校。仕事。肩書き。外見や豊かさ。
できること、できないこと。足りているもの、足りていないもの。
でも本当に大切なものは、案外もうすでにそこにあるのではないだろうか。
ただ、毎日そこにありすぎて、見えなくなっているだけなのかもしれない。
もう元気に育ってくれている。
願っていたものは、すでにもうそこにあるのである。





