いわゆる「反科学的」な言説に触れるたびに、以前からずっと感じていたことがある。
彼らは、「科学」を、「偉い人が決めたルール」だと思っているのではないか、そういうイメージなのではないか。と。
偉くて頭のいいエリートが、ある日突然、物理の法則や原理や理論を「決めた」と。
「そうだ!時間と空間は合体していて、しかも曲がっていることにしよう!面白そうじゃない?」
そんなふうに、教科書に出てくる数式や理論を「偉い人」が無邪気にひらめき、それを周囲の取り巻き学者たちがありがたがって信じている。そういうイメージ。
このイメージで科学を見るとたしかに、それが直感に反する理論であればあるほど、「偉そうな学者先生が適当にこじつけてでっち上げるホラ話じゃないか」と感じるのも無理はないのかもしれない。
特に、日常感覚の延長で素直に理解できる科学は、19世紀で終わりを迎えており、20世紀以降の科学は、きわめて日常生活的直感からはイメージが難しい領域まで発展してきているゆえ、この感覚は強まる。
つまり、神話や宗教と同じ「偉い人が作った物語」のフレームで見ているのである。
私たちの科学は「結論」なのだ
実際、私たちが本や授業で学ぶような科学は、過去何百年に及ぶ膨大な観察や実験や計算を経た「結論」だけを圧縮抽出したものだ。
だから、そのことを意識しないかぎり、奇怪な理屈が「天下り的に」空から降ってきたという印象になる。
何百年分の試行錯誤が圧縮されて、あたかも「学者が勝手に決めたルール」「単なる思いつき」に見える。
「俺がそうだといえばそうなんだよ。黙って従え。」
「―――偉そうに。」
でも実は、教科書で簡単に与えられるその「結論」の裏には、膨大な試行錯誤と事実の積み重ねと理論的裏付けがあり、事実と合致しなかったり穴があった理論はそこで死に、消えている。つまり、生き残りが「結論」になっている。
ここで重要なのは、その「生き残り」は、権威によって選ばれたわけではないということだ。
誰も逆らえないような偉い教授が一方的に「物理法則はこの数式に従え!」と権威的に決めたわけではなく、自然が突きつけてくる観測結果、実験結果、測定値、技術的応用に対して、説明できるものが残り、説明できないものが脱落していった。
科学者が理論を選んでいるというより、自然が理論を選別している。
もちろん、理論が確立するまでの過程で、政治的なところとか権威的なところとかもあるだろう。ただ、それでも科学には、最終的に「現実と合っているか」という逃げられない審判がある。
どれだけ美しい理論でも、どれだけ偉い人が提唱した理論でも、現実と合わなければ修正され、場合によっては捨てられる。
逆に、どれだけ直感に反していても、どれだけ奇妙に見えても、実験事実がその理論で定量的に説明でき、しかもその理論から新たな実験事実の予測に成功し、そして他の理論とも整合し、反論に耐えるのなら、それは受け入れざるを得ない。
そもそもこの世界は人間の直感に優しいわけではない。
むしろ科学の歴史は、直感的に納得できない現実を前にして、人間の側が世界の受け止め方を修正してきた歴史でもある。
理論は「名言」でも「思いつき」でもない
科学解説の文脈では、よくこういう言い方がされる。
「アインシュタインはこう言った」「こう主張した」「こう唱えた」
これは文章上の省略としては自然だ。
「科学」を、「偉い人が決めたルール」だと思っている人は、これをそのまま「そう口で発言した」という解釈をしがちなのではないかと思う。
つまり、「科学的な根拠に基づく理論」と、「偉人の名言」の”区別がついていない”。どちらもソノママの意味で「偉い人がそう言った」という理解である。
アインシュタインが偉いから相対性理論が正しいのではない。
相対性理論がいまだに現実の観測や実験に耐え続け、反論に耐えている状態だから、アインシュタインが偉いのである。
順番が逆なのだ。
相対性理論や量子力学のような理論はやり玉にあがりがちだが、これは「単なる思いつき」ではない。
どちらも、天才が突然「こういう世界観にしよう」と決めたものではない。
確かに、それらが生まれる過程で、常人にはできないような「思いつき/ひらめき」がきっかけになっている部分はあるし、科学解説のような文脈では、それが強調されがちではあるが、それはきっかけであって、単なる思い付きそのものは「理論」とは呼ばない。
「理論」と「名言」を混ぜちゃう人は、「思いつき」と「理論」も混ぜちゃうのである。つまり、「科学」は、偉い人の「思いつき」をつづった「名言」であると。
「科学論文」というのも、何となく「私はこれを思いついた」「世界はこうなっていると思う」と書いた思想文やエッセイのようなものを想像している人もいるのかもしれない。(論文も玉石混交ではあるが、ここでは、後世に残るレベルの理論に関連した論文に着目している。)
だとすれば、科学理論が物語や宗教と同じように見えてしまうのも、ある意味では自然である。
私は、YouTubeで、相対性理論と量子力学の解説動画を公開している。
どちらも、YouTubeにしてはまあまあ長めの眠気を誘いそうな動画ではあるが、できるだけ、「偉人の思いつき」の印象にならないように、自然が突きつけてきた事実と、それに抵抗しながらも最終的に考え方を修正してきた人間の長い歴史を意識した形にしているつもりである。
【解説】相対性理論ってなに?1時間で相対性理論を理解できる動画
【解説】量子力学って何?①奇妙な実験 なぜ「量子」と呼ばれるのか
https://www.youtube.com/watch?v=COHahFyMyzc&list=PLskKW-uhVDXBtHirwtcfK4TcEYtE1asLJ&index=1
科学は分業制
とはいえ、ここで現実的な問題が出てくる。
あらゆる科学や理論を、完全に理解している一人の人間は存在しない。人類の知的活動はあまりにも広く、深い。どれだけ勉強しても、ひとりの人間がひとつの人生でそのすべてを専門家レベルで理解することは不可能である。
量子力学ひとつを取っても、理論の前提になっているすべての実験や計算を自分でやり直すことはできない。そんなことをしていたら、それだけで人生が終わる。
だから私たちは、どうしても「自分が完全には理解していないもの」を信頼しながら生きることになる。誰かがやったこと、言ったことを「鵜呑みにする」必要がある。
ここが、科学を宗教っぽく見せてしまう一番難しい部分なのだと思う。
どちらも、自分では理解できないことを、誰かの言葉を通して受け取り、信じるように見える。
そしてこれは、科学者だって、あらゆる前提を毎回ゼロから疑っているわけではない。物理学者が論文を書くたびに、毎回すべての理論の基礎から疑い直し、検証しなおしているわけではない。多くの研究は、既存の理論や先行研究を、ひとまず信頼することで進んでいる。
ただし、ここで信頼しているものが違う。
科学において信頼しているのは、特定の偉人でも、ある一冊の聖典でも、団体の教義でもない。
信頼しているのは、観測・記録・計算し、公開し、それを他人が検証・再現し、反論があり必要なら修正するという「仕組み」そのものである。
誰かがどこかで疑い、別の誰かが検証し、さらに別の誰かが応用し、矛盾が出ればそのどこかで引っかかり、パズルのピースがはまらなくなる。
どれだけ政治的な力で事実や理論を捻じ曲げようと思っても、他の理論や事実と「整合性」が取れなくなり、ピースがかみ合わなくなるのである。
物理学を曲げれば、それを前提にした工学に矛盾が出る。
化学を曲げれば、それを前提にした材料科学や医薬品開発に矛盾が出る。
科学体系全体をコントロールする陰謀は、単に多くの人間にカネを握らせて黙らせれば成立するものではない。
なので、大量の専門家による議論と検証を経て形成された知見は、「ピースがはまっている」と信頼できる。
科学は分業制なのである。
科学が信じるもの
いくら、すべてが再現可能であるとされる科学であっても、すべての実験を自分で再現できない。
結局、専門家共同体に信頼を置くしかない。
そう考えると、「科学も結局、信じているだけではないか」と言いたくなる気持ちはわかる。
しかし、そこで重要なのは、何を信じているのかである。
宗教が「絶対の真理」や「偉い人の言葉」を信じるのに対し、科学は「絶対の真理ではない」という前提で成り立っており、「誤りが見つかり次第訂正される仕組み」を信じている。
つまり、科学は一部の天才が書き上げた「完成された物語」ではない。現実という厳しい審判の前に何度も書き直され、今この瞬間も人類が総出でアップデートし続けている、泥臭くて果てしない共同作業の記録なのだ。
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