[Ad] 20 代の頃、私はいつも「今日」よりも「明日」のことばかり考えていた。
欲しい仕事に就き、もっと良い機会に恵まれ、もう少し稼げるようになり、理想の自分に近づけば、人生はきっと楽になるはずだと信じていた。
だから、何かを成し遂げるまでの辛抱は当然だと思っていた。やりたいことを後回しにし、罪悪感なしには休めず、今の自分の人生を心から好きになれない——そんな状態もすべて、一時的なものだと片付けていたのだ。
いずれ状況は変わるだろうから。
しかし不思議なことに、一つの目標を達成しても、その感覚が消えることはなかった。一つが終われば次の目標が現れ、私はひたすら走り続けていた。
そしてふと、こんな疑問が浮かんだ。
本当の人生を始められるのは、一体いつなの?
振り返ってみると、夢を描いたり、それを叶えようと努力したりした時間を後悔していない。むしろ、あの時間があったからこそ今の自分がいると思う。ただ、一つだけ私を苦しめたことがある。
「将来のための通過点」として、今の人生を軽視していたことだ。
20 代でこう感じることは珍しくない。変えたいことが山ほどある——キャリア、お金、人間関係、そして自分自身。当然、現在の自分よりも未来の自分に期待を寄せてしまうものだ。
問題は、その期待が続く限り、実際に生きている「今」の人生がどんどん後回しにされていくことだ。
私の本当の人生は、夢が叶った瞬間から始まるのだろうか?
最近、チョン・ジウ(Jeong Ji-woo)著書の『不幸にとらわれない生き方』(原題:Don't Obsess Over Misfortune)を読んでいて、この問いについて深く考えた。

この本では、壮大な未来に幸せを求めるのではなく、いかに「今」の人生を見るかについて繰り返し語られている。今日の悩みを一生の問題へと拡大解釈してしまうこと、より良い可能性ばかりを追いかけて現在を見逃していること、すべての条件を満たさないと幸せになれないと思い込んでいること——そうした思考パターンへの警鐘が鳴らされている。
読み進めるうちに、書中の物語が、私が 20 代の頃に繰り返していた不安と奇妙なほど重なり合っていることに気づいた。
そこで今回は、この本に基づいて、「もっと早く知っておきたかった」と思う 4 つの話をお届けしたい。
1. 「何者になるか」の前に「どんな一日を送るか」を考えよう
以前、理想の人生を想像するとき、私は必ずまず「自分はどのような存在になりたいか」を考えていた。
どんな仕事をするのか、どれくらい稼ぐのか、他人からどう見られたいのか。
20 代の前半、私は他人から見栄えの良い仕事を強く望んでいた。そんな仕事に就けば、もっと満たされた人間になれると考えていたからだ。
そのためしばらくの間、その未来に向かって必死に生きていた。
結局、願っていたのと似たような仕事に就き、周囲から肯定的な目で見られる経験もした。
しかし、夢が現実になった瞬間、それは想像していたものとは少し違っていた。
若い頃の自分が描いていたイメージには確かに近づいたのに、なぜか「ついに望む人生を生きている」という実感は、思っていたほど強くなかったのだ。
代わりに初めて湧き上がったのは、こんな好奇心だった。
**「本当に欲しかったのはこの仕事だったのか? それとも、この仕事をしている人が送るであろう『人生』だったのか?」**
よく考えれば、私たちが望む多くのものはこれに似ている。
有名企業に入りたいという願望は、単に社名が入った名刺が欲しいわけではないかもしれない。
得意なことで認められたい、仕事中に成長を感じたい、一日を終えたときに「充実していた」と思いたい——そう願っているのではないだろうか。
たくさん稼ぎたいというのも同様だ。
買い物の際に毎回値段を確認しなくて済む生活、大切な人と時々美味しい食事をする時間、お金のために旅行計画を諦めなくて済む余裕。
おそらく、私たちが本当に求めているのは、こうした日常に近いものなのだ。
しかし、一つの夢ばかり見つめ続けると、当初の理由がかすんでしまい、最終的には会社名や給与、肩書きといった「見える条件」だけが鮮明に残ってしまう。
私はこれをかなり遅れて悟った。
『不幸にとらわれない生き方』には、こんな一文がある。「人間は名詞ではなく、動詞である」。
著者はこう言う。今日書く人が作家になり、今日愛する人が恋人になる。名前や職業は、あくまで行動の後につけられる「ラベル」に過ぎず、人は今日行うことに基づいて変化し続けるのだと。
特に、「今日やっていることが、あなたという人間を定義する」 という考え方は、私の心に深く残った。
私たちはよく、作家になってから執筆生活が始まり、良い仕事に就いてから意味のある働き方が始まり、成功してから初めて理想の自分になれると考えがちだ。
だが実際には、順序は逆かもしれない。
今日書き続けることで作家になり、価値あるタスクを繰り返すことで重要な仕事をする人になるのだ。
だから今は、未来を想像するとき、少し違う質問を自分に投げかけるようになった。
その人生を生きている『私』は、どんな平凡な一日を送っているのだろう?
好きなことをして生きたいなら、特定の企業に入れるのを待つ必要はない。今日、好きなことを少し試してみたり、伸ばしたい分野を学ぶ時間を確保したりすればいい。
お金に縛られない生きたいなら、大金を稼ぐまで焦って待つ必要はない。他人が良いと言うものに何気なくお金を使うのではなく、本当に好きなものにお金と時間を使う選択から始めればいい。
自分の意志に沿って生きたいなら、すべての条件が揃うのを待つ必要はない。今夜の次の 1〜2 時間をどう過ごすかを決めればいいのだ。
こう考えると、未来にしか存在しないと思っていた人生が、意外にも現在の一日に入り込む余地を持っていることに気づく。
もちろん、これだけで瞬時に夢の仕事が手に入るわけでも、裕福になれるわけでもない。達成すべき目標はまだあり、努力も必要だ。
しかしそれは、目標達成までの期間をすべて「まだ望む人生ではない」として生きる必要がないということでもある。
だから、夢が遠く感じるとき、私は二つのものを切り分けるようにしている。
**達成したいこと、 そして達成後に送りたい一日の種類。**
この二つを分けることで、驚くほど具体的なアクションステップが見えてくる。
2. 未来の自分用に温めていたもののうち、一つを許してあげよう
20 代の前半、私はよくこう言っていた。
「この夢が叶ったらやる。」
うまくいったらゆっくり休もう。もっと稼げたら素敵な旅行に行こう。仕事が安定したら他のことも始めよう。
当時はこれがごく自然なことだと思っていた。大事な時期なんだから、辛抱して、望みを叶えた後にこそちゃんとした人生を送るべきだと考えていたからだ。
問題は、「その時」がなかなか訪れなかったことだ。
一つ達成すると、また別の目標が生まれる。以前は就職が全てだったが、入社後は転職したくなり、落ち着くとまた欠点が見えてくる。
『不幸にとらわれない生き方』の「幸せを先延ばしにしない」という章には、こんな一文がある。
すべてが揃うまで幸せを先延ばしにすれば、60 歳になっても幸せは遠いままかもしれない。
この言葉は胸に刺さった。
長い間、私は幸せを目標達成後の報酬として見ていた。頑張った人に与えられる休息、成功者に許される余暇、十分に大丈夫な人だけに許可される自己満足——そういうものだと。
しかし、人間が「すべてを手に入れた」と思える瞬間など滅多に来ないからこそ、この言葉は響いたのだ。
名声に終わりはない。稼ぎにも終わりはない。キャリアにも終わりはない。
考えてみれば、その通りだ。
就職すれば終わりだと思ったが、その後さらに良いキャリアを求めた。少し稼げば、もっと経済的な自由を望んだ。今欲しいものが手に入れば人生は完成するように思えるが、到着してみると新たな不足が見えてくる。
こうして、幸せは一歩ずつ後ろへ押しやられていく。
しかし、静かに考えればおかしい話だ。
安らかに休むために成功が必要なのか? 大切な人と過ごすために安定した仕事が必要なのか? なぜ、学びたいことを学んだり、可愛い服を着たり、自分を優しく見つめたりするために、他の条件が必要だと思ったのだろう?
もちろん、お金と時間が必要なこともある。
だが、多くの場合、現実的な理由で先延ばしされていたのではない。「まだ享受する段階ではない」と感じたから先送りしていただけだ。
だから、頻繁に使っている言葉を紙に書き出してみるといい。
「○○になったら、\_______しよう。」
そして自問する。後者を実現するために、前者が本当に必要なのか?
転職してからしか運動できないのか? 大金を稼いでからしか家族との質の高い時間を過ごせないのか? 成功してからしか自分を愛せないのか?
こう分解してみると、多くのことは実は無関係だとわかる。
20 代で望む人生を生きるということは、未来の自分に渡していたもののうち、一つを取り戻せるかどうかにかかっている。
もっと早く知りたかったことがある。
何かを切実に望みながら今日を好きでいられるし、今の自分に満足しながらもっと成長したいと思えること。
より良い未来を望むことと、今幸せであることは、排他的な選択肢ではない。
3. すべてを手に入れようとするのではなく、絶対に失いたくないものを選ぼう
20 代が苦しい理由は、選択肢が少ないからではなく、多すぎるからかもしれない。
上手くなりたいこと、持ちたいものがたくさんある。好きなことで稼ぎ、素晴らしいキャリアを築き、良い出会いがあり、健康を保ち、旅行もし、十分なプライベートタイムも欲しい。
個別に見れば、これらの欲望は何もおかしくない。
しかし、それらをまとめて「望む人生」と呼び始めると問題が生じる。望む人生が、実際に生きられる人生というよりも、あらゆる領域が最適化された仮想の人生に近づいていくからだ。
20 代は比較しやすい時期だ。
誰かを見ると、その人の仕事が欲しくなる。別の人を見ると、その人の恋愛が羨ましい。また別の人を見ると、家や余暇を妬ましく思う。
ここでの罠は、その理想化された人生が、一人の人間の人生ではなく、数十人の「一番見栄えの良い部分」を組み合わせたものである点だ。
実際のあなたは一人なのに、頭の中では 10 人のベストを集めた相手と競っていることになる。
「無限の可能性より、一歩ずつ」という章で、著者は意外な指摘をしている。
「無限の可能性にとらわれれば、人は何事にも満足できなくなる。」
最初は苛立ちを覚えた。20 代にとって可能性を開いておくことは良いことではないのか?
しかし読み進めると、「可能性を限定する」の意味が違って見えてくる。
もし異なる夢、親、投資、パートナーを選んでいれば、今日は全く違ったものになっていたかもしれない。だが、そのすべての可能性を現在の人生の隣に並べ続ければ、今の人生は常に「もっと良くなったはずの人生」と比較され続けることになる。
本では、人生を愛するためには、どこかの時点で可能性を限定しなければならないと言われている。
私はこれを「小さく夢見ろ」というアドバイスではなく、「人生が良いものだと認めるための条件を無限に増やし続けるな」という忠告だと解釈した。
他の人生を想像することはできる。専攻を変えていれば、もっと早く始めていれば、別の会社に入っていれば、違う人に出会っていれば——。
どの選択をしても、選ばなかった道は残り続ける。しかし、それらの人生を同時に生きることはできない。
結局、数えきれないほどの可能性の中から、人生に残すものを選ばなければならない。
様々な選択を通じて、私は徐々に自分の基準を学んできた。
以前はよく、「これは他人から見て良い選択か?」と考えていた。評判の良い会社か? 安定した道か? 他人に説明して納得してもらえるか?
しかし、そのような基準で選んだ結果、良い道を歩いているはずなのに、それが自分の人生だと感じられないことがあった。
だから今は、別の質問をする。
この選択をした後も、自分が大切だと思うものを保ちながら生きられるか?
この基準があれば、欲しいものはまだ多いとしても、「絶対に必要なもの」と「なくても大丈夫なもの」を区別できるようになる。
すべての可能性を持つことはできないが、失ったとき最も惜しく感じるものが何かは知っているからだ。
だから「望む人生」を考えるとき、欲しい条件をすべてリストアップする前に、まずこう聞いてみてほしい。
「自分らしく、良く生きていると感じるために、絶対に失いたくないものは何か?」
それは意味のある仕事かもしれないし、大切な人と過ごす十分な時間かもしれない。
一人没頭する時間が必要な人もいれば、経済的自立が必要な人、心身をケアする空間が必要な人もいる。
重要なのは、他人が羨ましがるものを選ぶことではない。
他をどれだけ持っても、それがないと「これは望む人生じゃない」と感じてしまうものを見つけ出すことだ。
本では、無限の可能性という海に飛び込むのではなく、人生をより良くするための可能性を一歩ずつ実験することを勧めている。
この引用が良いのは、可能性を諦めるという意味ではない点だ。
優先順位を決め、その範囲内で人生をより良い方向へ動かすという意味だ。
20 代で望む人生を作ることは、すべての可能性を現実のものにすることではないかもしれない。
むしろ、自分らしく生きるために何が必要かを見て、自分がどんな人間かを学んでいくプロセスに近いようだ。
4. 正解を一度で選ぼうとせず、とりあえず試して調整しよう
私は大学に 6 年在籍した。一つの専攻に加え、ダブルメジャーも履修した。しかし卒業を前に、まったく異なる分野を一から勉強し直す決断をした。
当時、恐怖でいっぱいだった。人々は「遅すぎる」と言い、なぜそんな競争率の高い分野でやり直すのかと疑問を呈した。
何より恐ろしかったのは、これまでの選択がすべて間違いだったと認めることだった。新しい道で失敗したら、帰りたくない場所に戻らなければならないのではないかと心配した。
しかし振り返ってみると、あの選択で最も重要だったのは、それが「正しい」道だったかどうかではない。
他人が「良い」と定める基準よりも、自分が「欲しい」ものを優先した初めての経験だったことだ。
その経験は、その後の選択を変えた。何度も方向転換を重ねる中で、私はこう学んだ。
最初から自分が誰かなんてわからなかった。「本当の自分」を発見してから完璧な道を選んだわけではなかった。
逆だったのだ。
直接選び、その人生を生き、合えばもっと先に進み、合わなければ方向を変える。そうすることで、自分が好きなものと、維持できない生き方を学んでいった。
『不幸にとらわれない生き方』からの 2 つのポイントが、ここでうまくつながる。
第一に、「今日の問題は今日の問題」という章で、著者はこう述べている。
「人は容易に『今日の』問題を『一生の』問題に変えてしまう。」
20 代では、一つの選択が間違えると、それが人生全体の判決のように受け取ってしまうことがある。
就職活動に失敗すれば「キャリアが間違っている」と思い、方向転換すれば「ずっと間違った生き方をしていたのではないか」と考える。
新しい道を選んだとき、私も同じように感じた。
失敗した選択は、「この方法は自分に合わなかった」というだけでなく、「自分の決断自体が間違いで、誤った道を歩んでいた」 と感じられた。
しかし今は、一つの悪い選択が人生全体を台無しにしたわけではないと気づいている。
むしろ、試してみたことで、これまで知らなかった自分の新たな側面を学ぶ助けになった。
第二に、「無限の可能性より、一歩ずつ」という章で、著者は無限の可能性に飛び込む代わりに、「人生をより良くするための可能性を一歩ずつ実験する」 ことを提案している。
私は「実験」という言葉が好きだ。
実験は、最初から正解を知っている前提では行わない。
20 代では、一つの選択が巨大に感じられることがある。この会社を選ぶことがキャリアを決めるように思え、この道を諦めることが不可逆なように感じ、一つのミスが数年分の損失のように思える。
しかし実際に生きてみると、ほとんどの選択は変更不可能な答案用紙ではなかった。
合わなければ変えればよかったし、別の道を歩んでも以前の時間が消えるわけではなかった。
実際、そうした選択をしたおかげで、次に何が自分に合わないかを素早く特定できるようになった。
だから今は、頭の中で完璧な答えを作り出すために悩む必要はないと思っている。代わりに、小さなことから変えて始める。
退勤後、本当に試したかったことに 1 時間費やす。気になる分野を毎日 10 分勉強する。様々な環境に身を置き、社交的な場の方が調子がいいのか、孤独が必要なのかを試してみる。
こうしたことを通じて生き抜くことで、望む人生はますます具体的になっていく。
結局、望む人生とは、一度で見つけ出す正解ではなく、生きながらフィットしないものを消去し、合うものを残していくプロセスだ。
以前は、20 代をうまく生きるということは、他人より早く目的地に到達することだと思っていた。
完璧な仕事をすぐ見つけ、欲しいものを即座に特定し、試行錯誤なしで自分の居場所を確保すること。これが将来の後悔を防ぐのだと信じていた。
しかし、選択をし、欲しいものを手に入れ、それが本当に望んでいたものではないと気づき、方向を変える——こうした過程を経て、私の視点が変わった。
20 代において、望む人生の正解を早く見つけることよりも重要なのは、
自分が何を好み、何を重視し、どんな一日が最も自分らしいと感じるかを学ぶことだ。
そしてそれは、未来を見つめていてもわからない。今日を生きることによってのみわかるのだ。
『不幸にとらわれない生き方』では、幸せな人々は、不幸にとらわれない方法を各自のスタイルで学んでいると述べられている。
最初はこれを単純に「ポジティブであれ」という意味だと読んだ。
しかし本を読み終えた後、印象は変わった。
良い人生を生きるとは、不幸がゼロの状態に到達することではなく、
現在の不足が人生全体を「不足だらけ」と定義してしまう力を持たせない強さを持つことだ。
夢も同様だ。
夢を叶えた後にやろうと思っていたことを、もっと早く一つ試してみよう。先延ばししていた幸せを引っ張り出そう。他人が望むものではなく、自分が失いたくないものを選ぼう。間違えるリスクを受け入れながら、小さな選択をしよう。
こうした時間が積み重なると、 eventually(最終的に)気づくことがある。
望む人生は、ある日突然完成形として始まるのではない。今日、自分が望む方法で選んだ瞬間の中に、すでに少しずつ望む形へと作り上げられているのだ。





