私は思う、日常の不幸には、大きな悲劇とは異なる独特の辛さがある。その核心は、痛みの大きさではなく、その理由が見えないことにある。
戦争や貧困のような出来事には、少なくとも外から見えるものがある。全体の状況が解決できるかどうかは別として、苦しみの原因は部外者にも明らかだ。
人はその不幸に対して怒りを感じ、抵抗する方向性を持てる。敵がいると言うのは大げさかもしれないが、少なくとも打ち返す対象はある。
日常の不幸はその点で曖昧だ。食べられないわけではないし、明日が完全に閉ざされているわけでもない。それなのに、朝から少し重さを感じ、何をやってもうまくいかない時がある。
何が自分を苦しめているのか、はっきり掴めない状態だ。
人は理解できない苦しみに弱いと思う。日常の不幸はその意味でぼんやりしている。「なんとなく」という感覚が続くと、人は逃げ道を失う。原因が見えないから、どう距離を取ればいいか分からない。それが辛さの正体だ。
また、目に見える理由のない不幸は、自己責任へと向かいがちだと思う。苦しんでいることに加えて、その苦しみ方自体に疑いを持ち始める。すると、不幸は二重になる。
なぜ自分が傷ついているのか説明できない自分に、嫌悪感すら覚える。
日常の不幸は、外から見えるよりも耐え難いのかもしれない。
この種の不幸に必要なのは、まず原因を完璧に特定することではなく、単に「理由がまだ分からないまま苦しんでいる」という状態を認めることだと思う。
日常の不幸は単純であることは稀で、疲れ、退屈、すり減り、諦め、そして少しの孤独が絡み合ったものだ。
まずは、原因が分からなくても、それが本当に辛いことだと自分に認めるのが良いと思う。
日常の不幸が耐え難いのは、痛みが小さいからではなく、痛みが曖昧だからだ。この不幸の本質はそこにある気がする。
大きな悲劇は人を壊すことができる。日常の不幸は人を少しずつすり減らす。そして人は、意外にも後者を長く耐え続ける。それが厄介なところだ。
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