年齢を重ねるごとに、若い頃には想像すらできなかった事象に、金と時間を奪われるようになる。
こんな場所でプライベートについて語るつもりはないけれど、40代以降の大人であれば、おおむね「確かにその通りだ」と頷いていただけるのではないか。
いざその事態に直面したとき、金と時間のどちらか一方でも自由が利かない状態は、想像以上に厳しい。
生活の基盤が揺らぎ、場合によっては人生そのものが破滅しかねないリスクすら孕んでいる。
これは自慢でも何でもないけれど、私は20代半ばまでには、いずれそんな過酷な環境や状態が訪れることを「先回り」して確信していた。
だからこそ、最悪の事態が起きた際には、
「すべての活動を一時的に止めてでも、目の前の問題と徹底的に向き合える余裕ある状態」
を一刻も早く作りたいと、狂おしいほどの危機感を持って生きていた。
この状態を心の底から希求し、逆算の行動を重ねた結果、予定よりも大幅に早く、30代半ばを迎えるまでに、私は
「金と時間の双方を完全にコントロールできる世界」
へとたどり着けたが、それ以降、私の心は穏やかであり続けている。
世の中にはある程度、お金を自由に使える人はいるし、時間を自由に使える人も同様に存在するだろう。
しかし、現役世代で「お金と時間の双方」を高い水準で満たし、問題発生時にすべてのリソースを躊躇なく全振りできる人は、極めて稀であると思料される。
では、なぜ私が20代の時点でそこまでの未来を見据え、その世界を目指せたのか。
理由はたった一つしかない。それは圧倒的な「読書量」がもたらした、疑似体験の蓄積。
自分で圧倒的というのも気が引けるが、同年代の中での読書量は、控えめに見積もっても上位0.1%に入っているのは間違いないだろうと思っている。
以前にも書いたことがあるけれども私は、片道で1時間45分、往復で3時間半という時間をかけて中学・高校まで通学していた。
今から考えると信じがたいけれども、乗り換えが片道で3回もある過酷なルートだったが、幼少期から本の虫であった私は、まだスマホなど影も形もない時代、移動時間のすべてを読書に投じた。
クラブ活動もしていなかったから(する時間もなかった)、家に帰ってからも、ほとんどの時間は読書に費やしていた。
あらゆるジャンルを乱読したが、特に好んだのが、年長者のエッセイや、新聞のコラム、インタビュー記事だった。
30代、40代の中堅世代から、60代、70代、80代といった人生の大先達まで、彼らが綴る生々しい言葉の数々。
それらを楽しみながら貪り読むうちに、年齢を重ねるごとに
**・どのようなライフイベントが発生し
・そのとき人は何に困り
・どんな心境に陥るのか
**
が、鮮明な解像度で脳内にインストールされていった。
同時に、破滅を未然に回避するための心がけや、具体的な準備のあり方が、長い目で見たときの人生戦略の「机上演習(イメージトレーニング)」ともなっていた。
とはいえ、当時はもちろん、ただ知らない世界を知る喜びに衝き動かされて読んでいただけだから、学びのために読んでいる、などといった自覚は微塵もなかった。
したがって、ここまで記してきた事実に気づいたのはずっと後年のことなのだが、まさに
「すべての学びの価値は、事後的にしか回収できない」
という真実を、私は自らの体験をもって強烈に理解することとなった。
「若いうちから好奇心の赴くままに、多種多様な本を読んでおくべきだ」
という結論だけを語れば、ありきたりの訓話や陳腐な人生論に聞こえるかもしれない。
それでも私はあえて言いたい。
読書とは、不確実性の極みである人生において、自らの身を守る最強の「盾」となり、同時に人生を攻略するための「矛」ともなる。
本を読まず、未来に起こり得るリスクへの想像力も持たず、さらに対処のヒントさえ思い浮かばない中で、人生中盤以降の荒波に突っ込むのは、裸一貫で戦場に赴くようなもの。
さすがに無謀の極みではないか。
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