友人がいる。家族がいる。恋人がいる。それでも、どこかで満たされない。誰かといるときでさえ、胸の奥に薄い膜があって、本当にはつながれていない気がする。こんな感覚を抱えたことがある人は、少なくないはずだ。
多くの人は、これを「人間関係の問題」として処理しようとする。もっと社交的になろう、相手の気持ちを読めるようになろう、コミュニケーション能力を鍛えよう。あるいは、もっと気の合う人を探そうと環境を変える。
でも、それで孤独が癒えることは、ほとんどない。なぜかというと、その孤独の正体が「外の世界」にあるのではないからだ。
「人といても孤独」というのは、つながる相手が足りないのではなく、自分の内側に「空洞」があるということだ。その空洞を他者で埋めようとすればするほど、依存か失望かのどちらかに向かっていく。近づきすぎるか離れすぎるかの両極になってしまう。誰かといるときだけ安心できて、一人になると途端に不安が押し寄せてくる。それは人間関係のスキル不足ではなく、自分との接続が切れている状態がそのまま外側に現れているのだ。
心理学の世界では、こんな言葉がよく使われる。「本当の寂しさは、誰かがいないことではなく、自分とつながれていないことだ」。寂しさは恋人がいないからくるのでもないし、結婚してないからくるのでもないし、子がいないからくるのでもない。ひたすら、自分とのコミュニケーション不足なのである。問題の根が、最初から違う場所にある。
ここに気づかないまま「人間関係の技術」ばかりを磨いても、埋まらない空洞はそのままだ。むしろ「こんなに努力しているのに、なぜつながれないのか」という疲弊が積み重なっていくだけになる。
他者とのつながりは、自分とのつながりの質を超えられない。自分とつながれている人は他者と繋がれる。自分とつながれていない人は他者ともつながれない。シンプルだが、多くの人が見落としている根本的な構造だと思う。
ユングが内向型に見ていたもの
カール・グスタフ・ユングは、20世紀最大の心理学者のひとりだ。フロイトの弟子として出発しながら、やがて決別し、独自の「分析心理学」を打ち立てた人物である。
そのユングが残した言葉の中に、こんなものがある。
「外を見る者は夢を見る。内を見る者は目覚める。」 ("Who looks outside, dreams; who looks inside, awakes.")
初めてこれを読んだとき、しばらく意味がつかめなかった。 外を見ることの何が夢なのか。内を見ることの何が目覚めなのか。
でもユングの思想の文脈に置くと、これは単なる詩的な表現ではないことがわかる。これは彼の哲学(あえて心理学ではなく「哲学」と言う)の核心に触れる言葉なのだ。
ユングはまた「内向性・外向性」という概念を世界で初めて体系化した人物でもある。(「内向哲学」が存在するのは、MBTIではなくユングのおかげである。)著書の中でユングは、内向性を「エネルギーが内側に向かう性質」と定義した。外向型が外の刺激からエネルギーを得るのに対して、内向型は内側に向かうことでエネルギーを充足させる。一般的に「内気」というのは古今東西「欠点」だとされがちで、それは令和の日本も、ユングの時代のスイスも変わらない。その内向性を「欠点」ではなく、情報を深く丁寧に処理するための「構造」だとユングは見ていた。
そして内向型には特有の傾向があると、ユングは指摘している。外の出来事よりも「内なるオブジェクト」に意識が向かいやすい、つまり物事の表面ではなく、その背後にある構造やパターンへと潜っていこうとする力だ。これをユングは「内向的直観」と呼んだ。
ここで冒頭の言葉「外を見る者は夢を見る。内を見る者は目覚める。」が意味を持ってくる。
内向型の人間にとって、「外を見続ける」ことは消耗だ。人の顔色、場の空気、流れてくる情報の量。外に向き続けると、エネルギーがどんどん失われていく。そして自分が何者なのかが、霞んでいく。一方で「内を見る」というのは、自分の感情や欲求や思考のパターンに正直に向き合うことだ。外の騒音を遮断して、自分の内側の声に耳を傾けること。ユングはこれを「目覚め」と呼んだ。内を見ることで初めて、自分が何者であるかを知ることができる。そしてそこから初めて、他者とも「夢の中ではなく現実の中で」つながることができる、という構造だ。
さらにユングの思想には「投影とシャドー(影)」という概念がある。人の心の中には、自分でも認めたくない欲望、抑圧された感情、否定してきた弱さなどが眠っていて、これをユングはシャドーと名づけた。このシャドーを無視したまま外に出ていくと、何が起きるか。抑圧されたものは消えるのではなく、他者への「投影」として現れる。
わかりやすい例を挙げよう。
「あの人、自分のことしか考えていない」と強烈に腹が立つとき、その怒りの強さが異常に感じられることがある。誰が見ても「そこまで怒ることか?」という場面なのに、自分だけが沸騰してしまうことがある。もちろん僕にもある。ものすごくある。ユング的に読むと、これは往々にして投影だ。自分の中にある「自己中心的でありたい(でも自己中心的ではいけない)」という抑圧された欲求が、相手の中に見えてしまっている。だから相手の「自己中心的な振る舞い」に普通の人より強く反応する。自分が「自己中心じゃダメなのに!!!」「他者のことを考えなきゃダメなのに!!!」と否定している部分を、相手が堂々と体現しているから、それを許せないのだ。
あるいは、こんな話もよく聞く。「あの人は弱い、すぐ音を上げる」と誰かを批判してやまない人が、実は自分の弱さをひどく怖れていて、強さを演じることに必死だったりする。あるいは「あの人は嘘くさい、どうせ本音じゃない」と疑い続ける人が、自分こそ本音を押し殺して生きていることに気づいていない。他者への批判の矢印は、しばしばブーメランの軌跡を描いている。
逆のパターンもある。誰かへの怒りではなく、誰かを過度に理想化してしまうのも、投影の一形態だ。「あの人は完璧だ、あの人だけが自分をわかってくれる」という感覚が生まれるとき、そこには「完全に受け入れられたい」「誰かに全部わかってほしい」という、自分の中の飢えが映し出されている。だから理想化した相手が少しでも人間らしい欠点を見せると、一気に幻滅する。相手が変わったのではなく、投影が崩れただけなのだ。一時期SNSで「蛙化現象」という言葉が流行ったけど、まさにこれだろう。自分の内部を相手に投影して、過剰なまでに相手を理想化してしまうのである。こういう人の恋愛パターンは「熱しやすく冷めやすく、非常に安定しにくい」のが特徴だ。これもユングの言う「投影とシャドー」が理由になっている。
自分のシャドーに向き合わない人間は、他者を正確に見ることができない。外に出れば出るほど、自分の無意識を他者に投影し続け、夢の中を歩くようになる。それがユングの言葉の意図のひとつだ。
さて、内向型の人にとって、この「内を見る」という作業は実は苦手ではない。むしろ得意だ。静かな環境に一人でいると、自然と思考が内側に向かっていく。「あのとき、なぜあんなに傷ついたのか」「自分は本当は何を求めているのか」といった問いを、時間をかけて掘り下げていくことができる。内向型は比較的、自分のなかにある「投影とシャドー」に気づきやすい。それに気づければ対人関係や恋愛の「生きにくさ」をかなり解消することができる。これは大きなメリットである。
ユングの言う「目覚め」とは、自分の「輪郭」をなるべく深く、そして率直に知っていく作業のことなのだ。
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