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ここ最近X上で、料理レシピの紹介キャプションやタイトルに「夫が絶賛したレシピ」「子どもがパクパク食べた!」といった他者評価の表現が入っていることに、違和感を示す声を目にする機会が増えました。
なぜ自分の感想で語らないのか。他人の評価をアピールされると居心地が悪い。そんな声です。実は私も料理家を始めたばかりのころ、キャプションに「夫が好きと言ってくれた」と添えて投稿していました。第三者の声を借りた方が、主観的な印象が抜けるように感じていたからです。特に私のレシピはぱっと見で味が薄そうに見えたり、一風変わっていて万人受けしなさそうな印象を持たれたりすることがありました。そのため、意外と万人受けする味であるということをより効果的に伝えたいと思っていました。
そして何よりも、作ったものを身近な人が喜んでくれたことがシンプルに嬉しかった。無邪気にそのまま書いていたのだと思います。
しかし発信を重ねる中で、自分の発した言葉が意図とは別の意味を持って届くことがあると気づきました。家族に評価される料理を作ることが望ましい。家族の反応まで含めて料理の成果なのだ。そんな圧力として届いてしまうことがあるということです。私はそのことに気づいてから、自分の言葉の選び方の浅さを反省し、そうした表現を全く使わなくなりました。これからも使う予定はありません。
ただその一方で、誰かのために料理を作って喜んでもらえたことを、自分も嬉しいと感じる気持ちまで否定する必要があるのだろうかとも思います。
では、なぜ個人的な好意や喜びとして発せられた言葉が、ときにこれほど重たく受け取られるのでしょうか。この問いが、家庭料理にまとわりつく「こうあるべき」という前提について考えるきっかけになりました。
家庭料理に残る「こうあるべき」
この問題について考えていたとき、飲食店プロデューサーの稲田俊輔さんがSNSで投稿されていたQ&Aを目にし、ハッとさせられました。
稲田さんは、レシピ表現の背景にある第三者話法としての説得力や機能面に触れながら、家庭料理を取り巻く違和感の正体を「昭和の良妻賢母思想の亡霊」という言葉で表現されていました。
書籍やWEBで発信される料理の役割期待と、いまなお残る義務感についての指摘に私は深く頷くしかありませんでした。本人はただ「夫が喜んでくれて嬉しかった」と書いただけでも、その言葉は過去から続く「女性は家族の好みに合わせ、喜ばせることが美徳である」という価値観と重なってしまいます。
個人の純粋な気持ちと社会的な規範が同じ場所に存在している。だからこそ、発信者の意図を越えて重たく届いてしまうのだと腑に落ちました。特に女性がパートナーのために作る行為と、男性が作る行為とでは、歴史的に背負わされてきた「やって当たり前」という期待の非対称性が違います。
だからこそ、女性の発する「夫のために作った」という言葉は、意図せず家族に尽くすことの美徳化に見えてしまう構造があります。
同じ行為でも、背景にある社会的な文脈は同じではない
この問題を考えるうえでは、同じ「パートナーのために料理を作る」という行為でも、男性と女性で置かれている社会的な文脈が同じではないという点も無視できません。
歴史的に、男性には家庭料理を日常的に担うことが当然の役割として求められてきませんでした。徹底的に自分のためにやるか、自分がうれしいから相手にもつくるかの二択であることが多かったと思います。そのため、男性がパートナーの好みに合わせて料理をすると自発的にやっていることや相手への思いやりとして受け取られやすい面があります。
一方、専業主婦が標準的とされていた時代を経てきた女性の場合、家庭料理そのものが長く「やって当たり前」と期待されてきた歴史があります。そのため本人にとっては自発的な好意であっても、妻や母が家族のために料理をするという従来の役割の押し付けと重なって見えてしまうことがあります。
もちろん、現在のすべての家庭がそうだという話ではありません。家事や料理の分担は変化しています。男性が日常的に料理を担う家庭も増えています。ここで言いたいのは、男女の性格や考え方の違いではありません。家庭料理をめぐって歴史的に期待されてきた役割が非対称だったということです。
その蓄積があるからこそ同じ行為でも別の意味を含んでしまう。
だからこそ、女性が純粋な好意から「夫のために作った」「夫が喜んでくれた」と語ったとき、それ自体は本人の自由な選択であるにもかかわらず、受け手からは家族に尽くすことの美徳化に見えてしまうことがあります。
本人の自由な選択と「女性ならそうするべきだ」という社会的な期待が、第三者から見たときに混ざり合ってしまう。
そのズレこそが、家庭料理をめぐる言葉に独特の重さを生んでいるのではないかと思います。
「誰かのために作ること」と「作らなければならないこと」は別
だからといって、誰かのために料理を作ること自体を否定する必要はありません。
自分の意思で、この人が好きなものを作りたいと思う。それを食べてもらって嬉しいと感じる。それはとても自然な感情です。
誰かの喜ぶ顔が料理をする動機になる日があってもいいはずです。
問題なのは、それが「自分がやりたいからやる」のではなく「家族のためにやらなければならない」という義務に変わったときです。
逆に「他人軸はよくないのだから、自分のためだけに料理しなければならない」と極端に考えるのも違うと思います。
誰かのために作ることも、自分のために作ることも、それ自体に上下はありません。重要なのは、自分自身がそれをどの程度、自分の意思で選べているかです。
「選べばいい」では済まない現実もある
ここで「自分で自由に選べばいい」と言うだけでは不十分です。
特に小さな子どもがいる家庭などでは、今日は料理をしたくないから自分の分だけ何か適当に食べようというわけにはいかない現実があります。
子どもの食事を用意しなければならない。家族の生活を回すために、家庭内の誰かが何らかの形で食事を準備しなければならない。
仕事、子育て、介護、家族構成、健康上の事情などによって、食事づくりに割ける時間やお金、選択肢は大きく異なります。つまり現実には、自分が心から作りたいときだけ作るという生活ができない人も少なくありません。
だからこそ私は、家庭料理をめぐる問題を「嫌なら作らなければいい」「自分のためだけに料理すればいい」という単純な自己責任論にはしたくありません。
まず、負担そのものを減らせるなら減らす
料理を義務にしすぎないためには、まず負担そのものを減らせるなら減らすことが大切です。惣菜や冷凍食品を使う。外食を利用する。簡単なもので済ませる。パートナーや家族と分担する。品数を減らす。方法はいくつもあります。ただし、こうした選択肢をどの程度使えるかも、家計や家族構成、住んでいる地域、アレルギーや持病、介護食などの事情によって大きく変わります。誰もが気軽に惣菜や外食を利用できるわけではありません。「作りたくなければ買えばいい」と割り切れる話でもありません。
大切なのは、それぞれの生活条件の中で、毎回一からきちんと作ることだけを唯一の正解にしないことです。食事そのものを用意しないという選択が難しい場合でも、毎回最大限に頑張る必要はありません。料理を完成させることより、その日の生活が無理なく回ることを優先していいのです。
まず負担を減らせるところから減らす。そのうえで、それでも残る料理の時間について、自分側の自発的な動機を持てないかと考える。私は、この順番がとても大切だと思っています。
「美味しいごはん」だけをゴールにしない
家庭料理を重たくしているもう一つの要因は、美味しいごはんをつくることが最大のゴールになってしまいがちだということです。
もちろん美味しくできれば嬉しいものです。しかし、毎日の家庭料理で常に高い完成度を出し続けることには限界があります。
しかも、家族がおいしいと言った。子どもが完食した。そこまで成功条件にしてしまえば、自分ではコントロールできない他人の反応まで料理をした人の評価に含まれてしまいます。
子どもは昨日まで食べていたものを突然食べなくなることもあります。どれだけ工夫しても食べない日もあります。パートナーにだって、その日の体調や気分、好みがあります。それを毎回「自分の料理が悪かった」「もっと工夫しなければ」と自分一人で引き受けていたら、料理が苦しくなって当然です。
料理のプロセスに、自分の動機を取り戻す
私はレシピを届ける立場として「これを作れば家族が喜ぶ」「失敗せずおいしく作れる」といった結果だけでなく、料理をしている過程そのものに面白さを感じられる視点も届けたいと思っています。
食材を切ったときの感触。火を入れたときの変化。香りが立つ瞬間。調味料によって味が変わっていくプロセス。得られる自己効力感と作業療法的癒し効果。料理には完成品を食べることとは別の次元に、つくるプロセス自体の魅力も多くあるはずです。
ただし、これも「料理は楽しいものなのだから楽しむべきだ」という話ではありません。料理そのものが好きではない人もいます。疲れ切っていて楽しむ余裕などない日もあります。そこでさらに「楽しめない自分はダメだ」と感じてしまえば、それもまた新しい負担になってしまいます。
だからこそ、まずは負担を減らせるなら限界まで減らす。そのうえで、それでも作らざるを得ない時間について「家族が食べてくれるものを作らなければ」という他者目的だけでなく、「この食材はこうしたらどうなるだろう」「今日はこの方法を試してみたい」と、自分側の小さな動機を一つ持ってみる。
完全には義務をなくせなくても、義務として残っている時間の中に、自分が主体になれる部分を少しずつ増やしていく。私がレシピや文章を通して届けたいのは、そうした視点です。
『タコセロリアボカド』を書いた理由
最近出版したエッセイ集『タコセロリアボカド』は、自分のためにつくること、人のためにつくることにまつわるエピソードを書き下ろした一冊です。
料理家の仕事を始めて、私は家庭料理にはあまりにも多くの「こうあるべき」がまとわりついていることに改めて気づきました。誰のために作るべきなのか。どのくらいきちんと作るべきなのか。何をもって成功とするのか。
料理をすることそのものよりも、そこに付随する評価や期待の方が大きな負担になってしまうこともあります。だからこそ、そうした前提を一度手放してみたい。
生活のために料理をしなければならない現実を抱える人にとって、まずは負担を減らすこと。そして家族の評価や完成した味だけを目的にするのではなく、作るプロセスの中に自分なりの興味や面白さを見つけること。
そんなことを考えるきっかけになればと思いこの本を書きました。
誰かのために作り、喜んでもらえたことを素直に嬉しいと思う気持ちを否定するつもりはもちろんありません。でも、家庭料理を「家族から評価されるための仕事」で終わらせない。時にはプロセスを主体的に楽しみ、時にはただ生活を回すために淡々と作る。そのどちらも含めて、自分なりの料理との付き合い方を選べるようにする。
『タコセロリアボカド』やこの文章が、料理にまとわりつく義務や評価について立ち止まって考え、自分にとっての料理との距離感を見つけるきっかけになればと思っています。





