強い言葉を使う人ほど、ほんとうは打たれ弱いのかも。今回のヒカルさんの岡村隆史さんへの発言を見て、私はそこに引っかかった。
流れとしては、ヒカルさんが以前タモリさんを「面白くない」と言ったことに対し、立川志らくさんが苦言を呈した。その後、ヒカルさんと志らくさんはYouTubeで共演。ヒカルさんは、批判を受け止めてコラボしてくれた志らくさんについて「器がデカくないと成立しない」と語った。
その流れで、話は岡村さんへ向かった。岡村さんはラジオで、YouTuberについて「おもろいんじゃなくて、しゃべれんねん。おしゃべりやねん」と話していた。つまり、しゃべれることと面白いことは違う、という話だった。
そこにヒカルさんが反応した。
「最近つまんない」
「お前もただのおしゃべりだろ」
ここまでは、まだ“言い返し”として見られたかもしれない。言い方は乱暴だけど、芸人とYouTuberの「面白さ論争」としては、ギリギリ土俵の上にある。
でも問題は、そのあと。
「メンタル弱そうじゃないですか」
この一言で、空気が変わった。面白い、面白くないの話をしていたはずなのに、急に相手の心の弱さに手を突っ込んだように見えた。しかも岡村さんには、過去に心身の不調で休養した時期がある。それを知っている人からすると、ただの毒舌では済まない。
「あ、それ言う?」
場が一瞬、笑いから冷たさに変わる。そういう言葉ってある。
批判と攻撃は、似ているようで違う
人を批判すること自体は、悪いことではない。
「面白くない」
「今の時代に合っていない」
「トーク力があるようには見えない」
きつい言葉ではあるけれど、まだ内容の話をしている。芸について、表現について、仕事についての評価だから。
でも「メンタル弱そう」は違う。
それは能力の話ではなく、その人の内側にある弱さを見つけて、そこを突きにいく言葉に聞こえる。
これを見ていて、私は母親のことを思い出した。
うちの母も、こちらが少し反対意見を言うと、話し合うのではなく、叩き潰しにくる人だった。
「そういう考え方もあるよね」では終わらない。
「あなたが間違っている」
「そんなことを言うなんておかしい」
「誰のおかげでここまで来たと思っているの」
気づけば、話の中身ではなく、こちらの人格や過去の失敗を責められている。
反論しただけなのに、なぜかこちらが悪者になっている。
意見を言っただけなのに、潰される。
これ、経験がある人はわかると思う。少し違う意見を言っただけなのに、急に語気が強くなる人。話し合いのはずだったのに、気づけばこちらの人格まで責めてくる人。意見の違いを、まるで裏切りみたいに扱う人。
あれは、会話ではない。
相手を黙らせるための制圧。
強い言葉で押し切られると、人はだんだん考えを言わなくなる。反論するのが面倒になるし、どうせまた叩き潰されると思って黙るようになる。でもそれは、納得したわけではない。ただ、心の中で距離を取っただけ。
今回のヒカルさんの言葉にも、私は少し同じものを感じた。相手の意見に反論するだけならいい。でも、相手の弱そうな場所を見つけて、そこを潰しにいく。それは議論ではなく、支配。
昔から、そこに引っかかっていた
私は昔、ヒカルさんのYouTubeを見ていた。夜店のくじを全部買う。高額なお金を使って、普通ならできないことをやる。相手が逃げられないところまで追い込んで、「ほら、やっぱりそうだったでしょ」と見せる。
たしかに、見てしまう力はあった。
でも正直に言うと、私はずっと思っていた。
これのどこが、そんなに面白いんだろう、と。
お金を持っている人が、お金に物を言わせて場を動かす。相手が焦る。困る。逃げ場をなくす。それを見て、画面のこちら側が「うわ、すごい」と盛り上がる。でもそれは、笑いというより、ただの力の見世物ではないか。
もちろん、誰にもできないことをやるから企画になる。普通の人が踏み込めない場所に踏み込むから、注目される。きれいごとで終わらせないところに、ヒカルさんの強さがあったのもわかる。
でも、胸の奥にはずっと小さな違和感があった。
これ、面白いというより、相手が追い詰められるところを見ているだけでは?
お金という武器で、場を支配しているだけでは?
それを「エンタメ」と呼んでいるだけでは?
こういうことを言うと、たぶん「嫌なら見るな」と言われる。
はい、その通り。でも、見てしまうんですよね。人間って。
ここがいちばん嫌なところ。
私たちも、その下品さを見てきた
ヒカルさんだけを責めれば、話は簡単。
「言いすぎ」
「失礼」
「人としてどうなの」
そう言えば、自分は安全な場所にいられる。
でも本当にそうだろうか。
私たちも、そういうものを見てきた。
誰かが追い詰められる動画を見てきた。
炎上を追いかけてきた。
暴露を読んできた。
コメント欄まで見に行ってきた。
「これはひどい」と言いながら、最後まで見る。「やりすぎじゃない?」と言いながら、次の展開を待つ。「人としてどうなの」と言いながら、心のどこかでザワザワを楽しんでいる。
はい、完全に私たちです。
人はきれいごとを言うけれど、強い人が誰かを追い詰める場面に、どこかで興味を持ってしまう。相手が困る顔、言い返せない瞬間、場の空気がピリッと変わる瞬間。そういうものを「よくない」と思いながら、目だけは離せない。
言い方は悪いけれど、人間の中にはそういう下品な好奇心がある。普段は隠している。自分はそんな人間じゃない顔をしている。でも、炎上や暴露や論破が伸びるたびに、ちゃんとバレている。
私たちは、優しい世界が好きなのではない。自分が傷つかない場所から見る、他人の修羅場が好きなのだ。
「スカッとする」の正体は、だいたい危ない
お金で場をひっくり返す。相手の矛盾を暴く。逃げ道をふさいで本音を引きずり出す。そういうものを、私たちは「スカッとする」と呼んできた。
でも本当は、スカッとしていたんじゃない。誰かが安全な場所から、誰かを追い詰めるのを見て、ちょっと興奮していただけかも。
今回の「メンタル弱そう」という言葉にも、同じ匂いを感じた。相手の弱い場所を見つける。そこに踏み込む。自分の強さを見せる。まわりがザワつく。昔の夜店のくじ全買い企画と、岡村さんへの発言は別の出来事に見えるけれど、根っこには似たものがある気がする。
それは、面白さというより、支配の快感。
そして私たちは、その支配の快感を「エンタメ」と呼んで見てきた。
ヒカルさんの言葉に怒っている人の中にも、過去にそういう企画を面白がって見ていた人はいるはずだ。私も含めて。人が追い詰められる場面を見ていたのに、それが有名人の心の弱さに向いた瞬間だけ「そこまで言うな」と言う。
もちろん、その感覚は正しい。言ってはいけない一線はある。
でも同時に、私たちは都合がいい。力で相手を動かすエンタメを育てておきながら、その力が見たくない場所に向いた途端、「品がない」と眉をひそめる。
いや、最初から品なんてなかったのかもしれない。ただ、画面越しだから見えにくかっただけで。
強い人ほど、どこまで言わないかを見られている
ヒカルさんは、もう弱い挑戦者ではない。登録者数もある。知名度もある。影響力もある。言葉を出せばニュースになる。つまり、もう十分に強い側でもある。
まだ無名の若者が大御所に噛みつくなら、下剋上に見えることもある。でも、すでに大きな力を持った人が、相手の心の弱さに触れると景色が変わる。
挑戦ではなく、攻撃に見える。
批評ではなく、いじめに見える。
同じ言葉でも、誰がどの立場から言うかで重さが変わる。
そして本音は、相手を傷つけるための免罪符ではない。本音だから何を言ってもいいわけじゃない。正直だから偉いわけでもない。むしろ、本音ほど扱い方が難しい。
包丁と同じで、よく切れるものほど置き場所を間違えると危ない。食材を切れば料理になるけれど、人に向ければただの凶器になる。
66年生きてきて思う。
人は、自分が安全な場所にいる時ほど、他人の痛みに鈍くなる。そして本当に怖いのは、毒舌を吐く人だけではない。その毒を「面白い」と言いながら育てておいて、自分の嫌いな方向に飛んできた時だけ、急に善人の顔をする私たちのほうかもしれない。
これ、ヒカルさんだけの話じゃない。
炎上を見に行ったことがある人。
コメント欄まで読んだことがある人。
「これはひどい」と言いながら、最後まで追いかけたことがある人。
たぶん、全員刺さるはず。
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