東京の国立近代美術館で開催されている杉本博司氏の展覧会「絶滅写真」を見てきた。新作は特になく、今までの杉本作品の集大成という感じだった。
新しかったといえば、写真一枚一枚に、杉本氏本人作の謎の狂歌がついていたこと。本人の戯号「素遁卿(すっとんきょう)」よろしく、くだらんオヤジギャグが満載で、X上を眺めると極めて評判が悪かった。
作家としての杉本は優れているが、その作品を眺める人間としては二流であるといった人がいる。
いやいや杉本の芸がそもそも粗悪だという人もいる。
カスだ、とまで痛烈に批判する声もある。
本当にそうだろうか?むしろこのネット上の大ブーイングも含めて、杉本氏という古狸のたくらみのうちなのではないかとすら思う。
というのも、杉本博司という作家は、「鈴木大拙の皮をかぶったタモリ」だと私は思っているからだ。
時間、記憶、永遠、海、光、神道、能、古美術。
モノクロームの大判写真。
静謐な展示空間。もうどこからどう見ても超クールで「ZEN」である。
めっちゃくちゃ鈴木大拙。
ところが作品を丹精にみていくと、その中からかなりタモリ的なものが出てくるのではないか。
そう、杉本博司の作品は、最初から壮大なオヤジギャグなのである。
写真を写真に撮る
たとえば初期の「ジオラマ」シリーズ。
自然史博物館のジオラマとは、失われた生態系や絶滅した動物を、剥製と背景画と照明によって再現する装置だ。考えてみれば、ジオラマそれ自体が写真とよく似た機能を持っている。
つまり失われた時間を、現在に現前させる装置。
杉本は、その「写真みたいなもの」を、さらに写真に撮る。
すると妙なことが起きる。肉眼で見れば明らかに博物館のセットだったものが、写真になると本当に野生動物や太古の人類を撮影したように見えてくる。シミュレーションにシミュレーションを掛け合わせると、何故か本物らしくなる、まあスタジオで撮った映画と同じだ。
「肖像写真」シリーズも同じ構造だ。蝋人形という三次元の保存メディアを、まるで本人がスタジオにやってきたかのように撮影する。
「ヘンリー8世の肖像写真です」
いやいや、ヘンリー8世は写真が発明される何百年も前に死んでるでしょ(笑)
「でも写真はここにあるよ」
写真論として語れば、写真が持つ「それはかつてそこにあった」という証拠性を反転させている、という立派な話になるかもしれない。でも発想の芯だけ取り出せば、
写真を写真に撮ったら、本当っぽくなるんじゃない?
という、かなりベタな遊びである。杉本の場合、このしょうもない発想をものすごく高い精度で実行すると、そのまま哲学的な問題になってしまう。
というのも、杉本が本当に撮っているものは、マンモスやヘンリー8世そのものではない。彼の作品にはずっと、「歴史とは本当に過去にあるのか。それとも現在から過去に向かって作られているのか」という疑いが中心にあるように思う。
私たちは過去そのものを見ることはできない。 博物館のジオラマ、蝋人形、写真、美術史、キャプション、鑑定、展示ケース。過去を見るとき、私たちは必ず何らかの装置を経由している。そして、その装置が「これが過去です」と提示する像を、過去そのものだと思って見ている。
だから杉本が撮っているのは、「われわれが過去を見るときに使っている装置」そのものであり、その装置をさらに写真という別の装置に通している。博物館では明らかに作り物だったジオラマが、写真になった途端に「過去の記録」のように見え始める。
これは単純なフェイクの暴露ではない。歴史的なリアリティがどのような装置によって作られるのかを、一度その装置の外に出して見せることである。杉本にとって、過去と現在、本物と偽物は、最初からそれほどきれいに分かれていない。
そしてこの問題は、後の「海景」や古美術、日本表象にもそのままつながっていく。
映画一本を一枚に撮る
「劇場」シリーズになると、さらにわかりやすい。
映画一本が上映されている間、ずっとカメラのシャッターを開けておく。映画とは大量の静止画が時間順に流れることで成立する映像である。
それを逆に、全部を一枚の写真に入れたらどうなるのか? スクリーンは真っ白になる。 映画一本を全部撮ったら、何も写らなかった。
ほとんど一発ネタである。しかし結果として現れた真っ白なスクリーンは、マレーヴィチの白い絵画のようにも見える。映画という大量のイメージを徹底的に加算した結果、イメージが消えて、モダニズムが夢見た純粋な平面が出現してしまう。
杉本には、この「比喩を字義通りにやる」癖があると思う。
時間を一枚に凝縮する、とか 昔の人を写真に撮る、とか 太古の風景を現在に撮る、とか。
普通なら概念として語るところで、「じゃあ実際にやってみよう」となる。
ここが私には非常にタモリ的に見える。タモリも、鉄道、地形、言語、ジャズ、坂道といった対象について妙に詳しい。しかしその知識をありがたい教養として提示するというより、知識の内部にあるズレや妙な論理を見つけて遊ぶ。
杉本もかなり似ている。写真史、古美術、建築、神道、能、数学を深く知っている。しかし知識を権威として積み上げるだけではなく、「それって要するにこういうことでしょ」と一度ひねってしまう。
タモリっぽさの核心は「偽物を精巧にやる」こと
ここで言うタモリっぽさとは、単なるキャラクターの話ではない。タモリの初期芸を考えると分かりやすい。
例えばハナモゲラ語は、実在する外国語ではない。しかし、外国語らしさの核心であるリズム、イントネーション、身振りだけを抽出して、外国語のように聞こえる偽物を作る芸だった。四か国語麻雀も同じ。実際の言語を喋っているのではなく、「中国語らしさ」「韓国語らしさ」「フランス語らしさ」といった音響的な記号を誇張して再構成する。
タモリは昔から、本物を模倣するのではなく、本物らしさが何によって成立しているのかを抽出して、それだけで偽物を作るということをやっている。
これって「ジオラマ」とほとんど同じなのではないか?
杉本も「本物の太古」は撮らない(というか撮れない)、かわりに博物館が作った「太古らしさ」を撮る。すると写真という装置を通すことで、その「らしさ」が強化されて、本物以上に本物らしくなる。
ハナモゲラ語は外国語のシミュラークルで、「ジオラマ」は過去のシミュラークル。どちらも偽物なのだが、偽物だから面白いのではない。「本物らしさ」が何によってできているのかを、偽物を作ることで暴いてしまう。これが第一のタモリ性。
もう一つは「なりすまし」である。タモリは自分自身を「なりすまし」と表現することがある。実際、彼の芸にはかなり一貫して、専門家でも当事者でもない人が、その形式だけ異様な精度で身につけて入り込む、という性格がある。
杉本の仕事も、なりすましとして並べ直すことができる。
古代人になりすまして海を見る。 宮廷写真家になりすまして蝋人形を撮る。 自然写真家になりすまして博物館のジオラマを撮る。 古代建築の継承者になりすまして神社を作る。 日本文化の伝統継承者になりすまして「ニッポン」を構築する。
なりすましを完璧にやることで、本物の方を足元からグラつかせる。
ついでに言えば、「ブラタモリ」的な相似性もあると思っている。目の前に見えている現在から、坂、暗渠、石垣、高低差といった痕跡をたどって、過去を再構成するということは、見ることができない過去を、現在に残されたインデックスから、組み立てなおすに他ならない。これは上に書いた「装置」の話とかなり近いと思う。
「海景」もかなり大きなホラである
杉本作品の中でも特に崇高に見える「海景」も、実はかなり怪しいと思っている。
杉本は、太古の人類が見ていたのと同じ風景を現在に撮ることはできないかと言う。陸地は都市になったり地形が変わったりしている。では海ならどうだ?海なら太古の人間が見たものと、今の自分が見ているものは同じではないか。そこで世界中の海へ行って、空と海をほぼ真ん中で二分する写真を撮る。
でもよく考えてみてほしい。 「そんなわけはないでしょう」と言いたくなる。
古代人と現代人では、視覚を取り巻く条件そのものが違う。私たちは地球が球体であることを知っているし、水平線を光学や地理の知識とともに見ている。写真というメディアについても知っている。同じ光景だとしても、同じものを「見ている」わけではない。
だから「これは古代人が見たのと同じ海です」という杉本の発想は、かなり大きなホラである。そんなことは杉本本人が百も承知だ。ジオラマで「装置」の仕組みを撮ってきた人間が、視覚の歴史性に無自覚なはずがない。
杉本はホラと知りながら、それを大判カメラと銀塩プリントで徹底的に仕上げる。すると、本当に太古から永遠に続く海のように見えてくる。
嘘を暴くのではなく、嘘を最高品質で実現することによって、本当らしさそのものを作る。
この感覚には、古美術商としての杉本がかなり関係していると思う。
古美術商は「本物」がどうできるかを知っている
骨董というのは、ある意味壮大な大ぼらの世界である。
これは偽物を売るという意味ではない。しかし古美術の価値は、物質だけでは決まらない。
誰が作ったのか。いつ作ったのか。誰が所有していたのか。どの箱に収められていたのか。誰が鑑定したのか。どの展覧会に出たのか。
物体のまわりに来歴が積み重なり、それが現在における価値を作る。
真贋にはもちろん物質的な根拠があるが、「歴史的価値」そのものが物体の内部に天然の成分として入っているわけではない。現在のわれわれが、過去について意味を作り、それを物に接続している。
古美術商は、それを商売の現場でずっと見ている。だから杉本が、本物と偽物を単純な二項対立として扱わないのは当然なのかもしれない。
例を挙げるなら、直島の護王神社。あれは古代からそのまま残ってきた歴史を復元しているわけではない。石、光、海、神道建築、地下空間といった断片を組み合わせながら、「ずっと昔からここにあったかもしれない日本」を新しく作っている。歴史的には再構成されたフェイクなのに、出来上がった空間はやたらと本物らしい。
フェイクがオリジナルになる。 これは「ジオラマ」とまったく同じ構造である。
杉本が海外向けにつくる「日本」
そして近年の杉本の仕事で重要なのが、海外に向けて提示される「日本」である。
能、神社、古美術、石、苔、海、陰翳、余白。 いかにも外国人が「NIPPON」と認識しやすい記号が大量に使われている。
田中みな実なみにあざとい。
だって杉本自身がその視線に無自覚なはずがないから。でもこのあざとさは単純な迎合でもないと思う。
海外観光客が京都へ行って期待する「NIPPON」を考えればわかりやすい。石庭がある。苔がある。古い木造建築がある。障子越しの光がおぼろげに、そして鹿威しとそのあとの静寂。禅である。
でもこれらは現代日本人の日常生活とはかなり違うはずだ。普通の日本人の日常に鹿威しや苔庭は存在しない。ドラスト、吉牛、ダイソー、コンビニ、イオンモールでできている。
普段の日本人の生活の中にないからと言って、石庭や苔庭が嘘の日本文化であるというわけではない、当然だ。 そもそも文化というもの自体が、過去から存在する無数のものの中から特定の要素を選び、繰り返し提示し、「これが私たちである」と言い続けることで作られている。その意味で、海外観光客が消費するNIPPONはある意味フェイクであると同時に、現実に機能しているニッポンでもある。
杉本は、この構造をかなり利用しているように見える。海外市場が期待する「NIPPON」を異常なほど高いクオリティで作り直す。しょぼい観光ポスター的なジャポニスムではなく、古美術商として本物を大量に見てきた人間が、石の選択、材料、建築、光、歴史的引用まで徹底的に詰める。
結果として、行政が手掛けがちなCool Japan的な文化施設よりも圧倒的に「日本らしい日本」が出来上がる。本物のフェイクNIPPONである。
フェイクであることと粗悪であることは同義ではない。杉本の場合、むしろ精緻すぎるフェイクを作る。あまりにも精緻なフェイクは、本物と区別すること自体がどうでもよくなる。
これは本物です、と真顔で言いながら、「でも、そもそも本物って何なんでしょうね」という問いを笑いながら投げかけてくる感じ。
これもやはり「ジオラマ」なのである。 人工の自然を完璧に撮れば、本物の自然写真になる。 人工的に構成された日本を完璧に作れば、「日本そのもの」になる。
杉本はシミュラークルを告発しない、彼は喜々としてシミュラークルを作っている。
だから「鈴木大拙の皮をかぶったタモリ」なのだ
ここまで考えると、今回の狂歌がそれほど異物には見えなくなってくる。私たちは長い間、杉本博司をかなり深遠な作家として見てきた。
海だの 時間だの 能だの 陰翳礼賛だの
だからこそ海外でも杉本は「日本的」「ZEN的」と高く評価されてきた。完全に鈴木大拙の皮をかぶっている。
いや、なりすまし論まで踏まえるなら、「皮をかぶった」という言い方だとぬるいかもしれない。彼は鈴木大拙になりすましているタモリなのだ。
しかしなりすましであったとしても、杉本は多分本気なんだと思う。信じているが、信じていない。独特の距離のまま、大拙をやり切っている。
「ジオラマ」も、「肖像写真」も、「劇場」も、「海景」も、
アイデアだけまで還元すると、わりと壮大なボケである。杉本がすごいのは、そのボケを途中で照れてやめないことだ。
最高の撮影技術に、最高の材料。建築まで作る、能も奉納する。
しょうもない問いに、途方もない資源を投入する。 一発ネタが写真論になり、時間論になり、日本論になる。
だから今回の狂歌に対して、「杉本博司ほどの作家が、なぜこんな寒いことを」と怒るのは、少し順序が逆なのではないかと思う。
狂歌そのものがおもしろいわけではない。
寒いものは寒い。
でもそれが杉本博司らしい。
彼は深遠さとくだらなさを分離してこなかった。
ただ今までは、ボケが完璧な銀塩写真の内部に隠蔽されていた。
今回はそれを本人が文字にして、表に出してしまった。だからサムい。
作品として見れば哲学なのに、言葉にするとオヤジギャグになる。その落差こそ、実は杉本博司なのではないか。
観客は今まで作品から「永遠」「無常」「禅」「時間」を読み取り、杉本を鈴木大拙として扱ってきた。ところが本人が横から狂歌を書き込んで、
「いや、この作品そもそもこういうダジャレなんだけど」とタモリ成分を露出させてしまった。だから嫌われる。
**作品の質を落としたのではなく、鑑賞者が杉本作品に付与してきた「深遠な杉本博司」というアウラを、杉本本人が剥がしてしまったのだ。
狂歌は図版に対して一切機能していないところか、足をひっぱりまくっている。しかしそれが杉本の狙いだと思っている。**
皮の脱ぎ方まで計算されている
冒頭で「炎上も古狸のたくらみのうち」と書いた理由がここにある。
今回の狂歌には、英訳がついていない。図録も買ってみたけど、やはり狂歌部分け英訳ついていなかった。
会場にはたくさんの外国人参観者がいた。彼らはこの下らなさに気づかずにスルーし、変わらず杉本を鈴木大拙として扱い続けるだろう。海外市場向けの「深遠な杉本博司」という商品は、一切傷ついていない。
種明かしを読めるのは、日本語を解する人間だけ。つまり杉本は、皮を全部脱いだのではない。海外向けには皮をかぶったまま、日本語話者にだけ、その内側にいる洒脱で屁理屈好きでオヤジギャグ好きなオッサンの顔を見せた。
そして、オヤジギャグに対する正しいリアクションは「ドン引き」である。ドン引きしなければ図版の足をひっぱることができないからである。そして狂歌を英訳したところで、オヤジギャグに対してドン引きする、という行為がセットになっていない外国人が変に感心したりされても困る。
つまり彼はどちらの観客に何を見せるかまで設計されている。古美術商が箱書きと中身を別々に管理するように。これを「たくらみ」と言わずして何と言うのか。
浅田彰は2005年の時点で、杉本を「写真史のヘーゲル」と持ち上げながら、一方で「落語家のように狷介で洒脱」と書いている。浅田らしい趣深く、奥ゆかしい語彙ではあるが、要するに「中身は芸人ですね(いい意味で)」ということである。
浅田彰の話でもう一個面白いのがある。デジタル化によって銀塩写真の特殊な材料が次々と製造中止になっていたころ、杉本は涼しい顔でこう言ったという。
「ということは、写真をやめるか、コダック社を買収するか、どっちかしかないということだな。」
写真という一つのメディアが歴史的に終わろうとしている。普通のアーティストなら深刻な文化論を始めるところで、「じゃあコダック買えばいいじゃん」と返す。回答がいちいち即物的でふざけている。
やはり、彼は鈴木大拙の皮をかぶったタモリなのだ。
コダック社を買ったら何をするか、見てみたいとすら思う。





