"東大理系院生がアカデミアから金融業界に足を突っ込む...そんなありふれた話。"
私は、東大柏キャンパスの研究室に通う物理学科の修士1年である。大学に入学後、多くの理系学生がそうであるように、量子力学に魅了され、気づけば物性の研究室に所属していた。学部3年までは他の学生と同様に本郷に通っていたわけだが、4年になってからはこの柏の葉キャンパス駅前に引っ越した。
柏の葉には、何もない。
東大にはるばるやって来た海外の研究者が、本郷ではなく柏の葉に飛ばされ、虚無に絶望した挙句、”Kashiwa is a sad place, LaLaport and nothing”という暴言を吐き捨て、去っていったというのはあまりに有名な話である。
家から大学への道のりを自転車で通学しながら、私は将来のことを考えていた。昨日、Xで見た、「東大卒の人生を考える会」という、私の人生を考えてくれそうなアカウントが、理一があまりにコスパが悪いと言っていた。こちらのアカウント曰く、アスペの理一生は、本来医学部で利確するべきであるらしい。
高校時代、少し学力が下の友人たちが、地元の医学部を目指していた。医学に興味がなかった私は、彼らが何を目標として医者になろうとしているのか、全く理解ができなかった。なんなら、少し見下してすらいたかもしれない。
しかし、この虚無の研究都市で貧乏な生活するうちに、彼らが目指していた安定・高収入というものの価値を、少しずつ理解し始めていた。物理に対する気持ちが少しずつ薄れていく、そんな自分が嫌だった。自分も利確するべきだったのか…と思いながら、鬱屈とした気持ちになる。
研究室につくなり、昨日帰る前に回した数値計算の結果について確認する。あ、ここのプロセスにバグがあったわ、あちゃー、となっていたところに、1学年上の先輩(修士2年)が神妙そうな顔で教授に話しかけに行くのが見えた。
「ちょっとお話いいですか…」
「どうぞ」
「いや、ここではなくてできれば個室の方で…」
研究室にピリッとした空気が走る。
わかった、じゃあ、あっちの私の部屋で話そう、となり2人は研究室を出て行った。
2人は部屋で何やら揉めている様子だった。教授が少し声を張り上げているのが遠くからでも聞こえた。
30分ほどたった頃に、教授と先輩が戻って来た。もう、一年ここにいるから分かる。研究室全体が、教授の機嫌の悪さを感じ取っていた。
その日、先輩と2人でお昼を食べに学食へ向かった。
先輩、今日、何を教授と話していたんですか?
先輩は笑いながら、
「いや、俺、博士課程行くのやめようと思うんだよね。」
と言った。
私は驚いた。
物理学科では各学年の半分近くの学生が博士課程に進む。うちの研究室はそれ以上だ。
先輩は、とても優秀であり、学部の頃から海外学会などで発表もしていたため、研究室の全員が博士課程へ進学することを疑っていなかった。
先輩は続けた。
「今、高校生のころから付き合っている彼女と、結婚とかの話になっててさ。彼女は、普通のOLなんだけど、東京で暮らしていきたいって。将来の子育てとかも考えると、学振の給料だと、到底まかなえそうにないから...」
学術振興会。通称「学振」。M2の先輩が出願しようとしていた博士過程向けの「DC1」は毎月22万円、年間300万円弱ほどの給料がもらえる。このDC1ですら、採択率は20%を切り、DC1を取れている学生は博士課程の中でも相当優秀な方だ。そんな優秀な学生ですらこれだけしかもらえない。博士課程の闇を語るには大変役に立つ指標だ。
「今年の1月ごろから就活していたんだけど、教授にはなかなか言い出しづらくて。DC1の申請資料を書いているふりなんかをしていたよ」
笑いながら話す先輩の横顔には、少し悲壮感が漂っていた。
博士課程に行かないなら、先輩は何になるんですか?
聞いても良い内容なのか分からなかったが、さすがに好奇心が勝った。
「日系の証券会社でクオンツをやるよ。俺らがやっている数値計算とか、使えるからね。」
クオンツか。東大の進振り記事で、数学科や計数工学科に行く学生の就職先としてメジャーだということを知っている。
「自分は就活を始めるのが遅かったから、外資とかはもう終わってて。春人も就活を始めるなら早い方がいいよ。」
少し心が痛んだ。先輩も、優秀な後輩にはきっと就活なんか勧めないだろうに。アカデミアでやっていけない、そう心の底で感じていたことが、見透かされているようだった。
先輩でも、物理を辞めることができるんだ。家に帰り、しみじみとそう思った。
先輩が物理を辞めるのに、自分が続けていくことはどう考えてもおかしい。そんな気持ちも芽生えていた。
それからは、ひたすらGoogleとXを徘徊する日々が続いた。クオンツについて書いてある記事、本当なのか分からない年収が書いてある元外資系金融社員のインタビュー、会社が公開している若手社員紹介には男子校界隈で有名な科学オリンピック金メダリストがいた。
金融の数学書についても目を通した。Xの実務家インフルエンサーが紹介していた「ジョン・ハル」でデリバティブについて勉強した。読むと、Day Countや、金利の種類といった実務的な細かい部分に内容が割かれすぎていて、通読はできなかった。その後に読んだ「シュリーブ ファイナンスのための確率解析Ⅱ」は、数学的な厳密性についてはどうかと思ったが、比較的楽しく読めた。クオンツという仕事が、こういった確率の理論に基づき数値解析をしていくといった仕事なのであれば、自分もやってみたいし、得意だと思えた。
一通り事前のリサーチができた、と思ったころには、もう5月に差し掛かっていた。
金融専門職に就くためには、そろそろインターンに申し込まなければいけない。そんなことは分かっていた。しかし、実際にどうESを書けばよいのか分からず、また、ネットで見たGDという陽キャが絶対有利な競技には参加したくないという強い意志によって一歩踏み出せずにいた。
とりあえず情報を集めるために、無料で内定者が話を聞いてくれるというエンカレッジ東大支部で面談を予約した。理系金融専門職っぽい人はほぼいない...仕方がないので、IBDの学部4年生の枠を取った。
Zoom面談に現れたのは、目に光がない、妙に落ち着いたトーンで話す経済学部の学生だった。
「今日はどういった用件で予約したの?」
ためぐちか...分かってはいたが、1個下になるので、少しプライドが傷ついた。
外資、日系問わず、理系っぽい金融専門職に興味があります。ESや面接の対策をしてほしいと思い、予約させていただきました。
するとIBDニキは少し困った顔をした後に、
「自分はIBDで、マーケッツの選考フローについては把握していないから、一般的なESや面接の対策をさせていただくけどそれで良い?」
と言ってきた。
それでも全然ありがたいです。ESで何を書いたら良いのか、面接で何を話したら良いのか一緒に考えていただきたいです。
IBDニキは、こんなレベルの状態でやってきた私に少しあきれたそぶりを見せたが、こういった相談者も多いのだろう、落ち着いたトーンで、
「じゃあ、自己分析から始めようか。」
と言い、私の初めての自己分析タイムが始まった。
そこでは、IBDニキが幼少期からの私の人生についてひたすら深ぼってきた。中学受験、中高の部活、大学受験、大学での学業や研究、サークル活動、短期留学、エンジニアのアルバイト、使えそうだと思ったパートには時間を使い、何やらメモに書き足していた。丸裸にされていくようでなんだか恥ずかしかったが、自分の人生1つ1つに意味を見出し、自分というものを再解釈していくというプロセスは楽しかった。
一通り話し終えた後に、なぜ金融専門職に就きたいのか、と聞いてきた。
私は、高校同期の医者に対するコンプレックスの話や、先輩のエピソードを踏まえたアカデミアの悲壮感、そういったものを克服し、社会で逆転したいと話をした。するとIBDニキは、うなずきながら、
「それ良いね。春人君の本音が見える気がする。」
え、こんなので良いのですか?
「良いと思うよ。結局人間を強く動かすのって、ネガティブな感情だと思うから。特に、金融のマーケッツは社会貢献性の低い仕事だし、誰かのために働きたいとか、そういったことを言われると向こうも困るでしょ。特に、春人君のキャラを考えてもね。」
なるほど...
「もちろん、一緒に働きたいと思ってもらえる可愛げは必要だけど。それに加えて、こいつは何としてでも成り上がりたいと思っている、そういう強さをみせていく必要があるんじゃないかな。」
時間が終わりに近づいたので、IBDニキはフィードバックノートをくれた。今回話した内容の中で、良かったものに印がつけられている。これをもとに、志望動機や自身の強みなどのストーリーが固まったら、またエンカレッジの面談を予約してほしいとのことだった。
最後に、最近どういった対策をしているのかという話になった。私は、シュリーブの確率解析を読んでいると言った。
「え、あの測度論から始まって、伊藤積分などを導入していく、あの黄色い本?」
聞くと、IBDニキは金融工学の授業を受けているが、2回目以降、測度論が分からず、授業についていけていないようだった。私は、彼が疑問に思っている部分を、分かりやすく説明してあげた。面談の終了時間は過ぎていたが、30分ほど金融工学の話をして、彼の疑問も少しは解決したように見えた。
そろそろZoomを終えましょうかという雰囲気になると、IBDニキが
「丁寧に教えていただきありがとうございました。自分はIBDなので、マーケッツのことはそこまでわかりませんが、友人に外銀セールスに内定している女の子がいるので、紹介しましょうか?」
と聞いてきた。いつの間にか敬語じゃん。何にかは知らないが勝った気がした。
ぜひよろしくお願いします。と伝えた。
何とシュリーブを読んでいたことで、外銀内定者の女の子の連絡先がもらえてしまった。
その日さっそくIBDニキが3人のライングループを作り、丁寧に私の紹介をしてくれた。女の子から、女子特有の少しキャぴみがある文章が送られてきて、久しぶりに目がちかちかしたが、無事Zoom面談の約束ができた。
何年かぶりに女の子と話せる...最近は暗い話が多かったので、久しぶりにふわふわした気持ちになった。
大手町の仔羊たち Street 2: 物理学徒、大手町を往く (終)





