『やがて君になる』という百合漫画には佐伯沙弥香という人物が登場する。
彼女は主人公でもヒロインでもない立場にありながら、百合界隈において圧倒的な地位を築き、今なお多くの人々から讃えられている女である。
最終的に彼女の恋が成就することはなかった。にもかかわらず、なぜ彼女はこれほどまでに愛されているのだろうか。
主人公をA、ヒロインをB、佐伯沙弥香をCとしよう。その関係を表すと以下のようになる。
A⇄B←C
主役の2人のベクトルが互いを向き合っているのはつまり、両思いを意味している。完成されたABの横で、Cから最愛のBへ向けられた矢印だけが孤独に残されている。
百合作品においては、このような立ち位置の女が登場することがある。
そして、彼女たちはいつだって名ドラマを生み出してきた。勝ち目がない。なのに目が離せない。
ABが進展すればオロオロし、彼女がBとのデートを勝ち取れば涙を流す。気づけば我々は手に汗握って彼女の動向を追っている。そんな魅力がある。
今日はこのような立ち位置のキャラクターを"Cの女"と呼ぶことにし、彼女らの生き様を紹介する。

雑な定義として、Cの女を以下のような特徴としてまとめておこう。
- B(ヒロイン)の心の壁が厚い
決して愛想が悪いわけではない。普通に会話もするし、友達もいる。それでも、心の奥にだけは誰も立ち入らせない。そんな硬い鎧を心にまとっている。理由はそれぞれ。
- Cの女はA(主人公)よりも先にB(ヒロイン)と知り合っている。
要は付き合いが長い。当然、友達の中では一番近い位置にいる。いちばん近くでその愛を押し殺してきたのだ。
- 空いていたはずのB(ヒロイン)の特等席にA(主人公)が収まる
なぜって?それが主人公ですから。
今日は「やがて君になる」「安達としまむら」「上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花」から百合界隈を熱狂させた代表的なCの女を3人紹介しよう。ここから先、本編のネタバレを含むことにご留意いただきたい。
なお、これは彼女たちの失恋を嘲笑する記事では決してない。
彼女たちが立ち向かったのは、エントリーすれば1選手として挑戦権が与えられるようなヒロインレースではない。
想い人の特等席を突然主人公に座られ、過ごした時間のアドバンテージも意味を成さず、付け入る隙はなく、この過酷な道のりに仲間はいない。
それでも彼女たちは、最愛の人の瞳に映りたいともがき、愛と向き合ったのだ。
彼女たちは、誰がなんと言おうと一生に一回の大恋愛をした。
波逆巻く大海へ一人漕ぎ出でた彼女たちの勇気と軌跡を、私は今ここに讃えたい。
【佐伯沙弥香 / やがて君になる】
Cの女界のレジェンド。始祖……かはわからないが、彼女の登場により百合界隈にCの女的な立ち位置が認知されていった印象がある。
『やがて君になる』は仲谷鳰先生による百合漫画だ。
恋愛感情を知らないまま思春期に突入し、周囲に取り残されていた主人公侑が、同じく恋愛感情を知らない生徒会役員燈子と出会う。
初めて自分と同じ仲間に出会ったことを喜ぶ侑だが、恋愛感情を知らないはずだった燈子は侑のことを好きになってしまい、さぁ大変という感じのストーリー。
容姿端麗(顔が良い!)、学業優秀、生徒会役員でシゴできな燈子。その隣で彼女をずっと支え続けてきたのがCの女のレジェンド、佐伯沙弥香である。
燈子の完璧さを100点とするなら、佐伯沙弥香は99点。
良きライバルとしてその座を脅かし、良きパートナーとしてその肩を支え続けてきた。なぜか?そりゃもちろん燈子のことが好きだからだ!

▲燈子の隣に立てるのは沙弥香くらいだと誰もが思っている。燈子もそう思っている。沙弥香もそう思っている。(やがて君になる 1巻)
特別な相手を作らない燈子にとっても一番近い存在だったのが沙弥香、のはずだった。
沙弥香は、燈子の完璧な面を支えることこそがずっと彼女のためだと信じてきた。
しかし主人公侑は、燈子が人に見せないその裏側に声をかけ続けた。
踏み込めなかった自分の臆病を認めた沙弥香は、己と向き合い、燈子へ愛を伝えることを決意する。
満天の星の下、燈子に思いを伝えた沙弥香。しかしその願いが叶うことはなかった。燈子の心にはすでに侑がいたからだ。ただ、彼女が育んできた愛は確かに燈子に伝わったのだった。
積もり積もった愛を抱え、特別を作らないはずの最愛の人が、後輩にだけ特別な眼差しを向けていくのを見ながらも、後輩の邪魔をすることなく、まっすぐ己の愛に殉じた。塔のように気高い彼女の魂をそのまま写したかのような大恋愛だった。
古代ローマであれば、女神によって夜空に上げられ『佐伯沙弥香座』となって時を超えて語り継がれていたことだろう。
素晴らしい大立ち回りだった。
いや、素晴らしすぎたのかもしれない。
あまりにも気高い恋に荒ぶったオタクの生き霊を鎮魂するために、彼女のスピンオフ小説が3冊も出たのは有名な話だ。

▲ 佐伯沙弥香を祀るために建立された現代の神殿
【郡上かなで / 上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花】
『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』は大学の学生寮を舞台とした、関係性の変化がスリリングな百合漫画だ。最近アニメ化もした。
登場人物を紹介する。

▲本作の一番のキーパーソン
いぶき。可愛げのある寮長。そういう職業ではなく、寮生が寮長をやることになっているので彼女も学生である。
彼女は大の酒好きで知られるが、人前では決して飲む姿を見せない。お酒を飲むとしゃっくりが出てしまう体質があり、それを人前で非難されたことが彼女の強いトラウマになっているからだ。
本作では、「人前でお酒を飲まない彼女が誰とならお酒を飲むのか?」言い換えれば「彼女とお酒を飲めるのは誰なのか?」が大きな鍵となる。
ここで、Cの女を紹介する。
同じ寮生の郡上先輩。院生なので寮長よりも先輩だ。
寮長に想いを寄せている彼女は、「寮長は人前でお酒飲んでくれないけどいつか一緒に飲みたいな〜。」「いいお酒なら一緒に飲んでくれるかも」などと淡い期待を抱きつつ、なかなか進展しない日々を送っている。

▲インテリなお姉さんですが、ちょっと意気地なし。
さて、ここで主人公の紹介。
上伊那ぼたん。全ての語尾に♡がついている爆裂百合サキュバス。

▲「寮長は舌が肥えていますね。お酒の味に詳しいのが羨ましいです」も上伊那ぼたんに言わせると「わたし、寮長の舌が欲しいな〜♡(ぺろり)」となる。
百合サキュバスの辞書に後退の文字はないので、上伊那ぼたんは「寮長と仲良くなりた〜い♡」の気持ちのままに彼女にガシガシアタックをかけていく。
そして彼女も寮長に似て、お酒を飲むとげっぷが出てしまう体質を持っている。寮長と同じ傷を持っているというわけだ。当然、寮長と上伊那の仲は進展する。2人でお酒を飲む間になる。
郡上先輩からしたら入ってきたばかりの新入生が「そういえばこの前寮長とお酒飲みました〜♡」なんて言うもんだからさぁ大変。もう「いつか一緒に」なんて言っていられなくなった郡上先輩の頑張りが始まる。

▲寮長がマニュアルを運転できる人が好きと聞いて、急いで運転を変わってもらう郡上先輩(当然エンストした)
こうして、他人を踏み込ませない寮長、寮長の懐に潜り込んでいく上伊那ぼたん、寮長を取られまいと頑張る郡上先輩の関係性が生まれる。
三角関係ではない。寮長は上伊那ぼたんしか見ていない。
明くる日、寮長を2人きりのドライブに誘った郡上先輩は、アホほど夕焼けが美しい丘でいちご漬け込みウィスキーを一緒に飲もうと提案する。これは告白とほぼ同じだが、寮長に沈黙で返されてしまうのだった。

▲世界で一番美しい振られ方

▲世界で一番美しい振られ方!!
人前でお酒が飲めない寮長に対して、「いいお酒をあげたら一緒に飲んでくれるかも」という表面的なアプローチをとった郡上先輩。
一方のぼたんは「あなたは人前でお酒を飲んでもいいんですよ」と寮長の心の柔さを包み込んだ。しかも「あなたと同じ傷を私も持っています」ときた。勝負あり。
でもこれだけは言わせてほしい。郡上先輩は黙っててもモテる女で自分からグイグイいくことは本来性分じゃないはず、それでも不恰好ながら足掻くことをやめなかった彼女は間違いなく美しかった。
【樽見 / 安達としまむら】
二度のコミカライズとアニメ化を果たし、今や百合小説の金字塔とも名高い「安達としまむら」。最後のCの女はそこにいる。
『安達としまむら』は読んで字の如く、"安達"と"しまむら"の物語である。
人間関係が希薄で、不良と不登校の真ん中くらいの似たもの同士の安達としまむらは、体育館の2階で一緒に授業をサボる関係性。だった。
ある日、安達がしまむらにキスをされる夢を見てから状況が一転。安達は寝てる時以外しまむらのことしか考えられなくなっていく。

▲安達はかつては『氷の彫像』と呼ばれるほどクールな女だったが、しまむらと会ってこうなった(安達としまむら 5巻)
安達は、世界でいちばん不器用な女だ。しまむらへのクリスマスプレゼントを本気で悩みに悩み、最終的にブーメランをプレゼントするような女である。(ブーメランを送ったのは安達ではなくしまむら側だというご指摘をいただきました。その通りです。私の記憶違いでした。しまむら、ブーメラン送るなんて何考えてんだ)
他人に特別を求めないしまむらに、世界で一番心が熱い女(対しまむら限定)の安達が熱意ただ一点で突撃していく。それが『安達としまむら』だ。
Cの女、樽見はしまむらの幼馴染である。彼女もまた、しまむらへの愛を胸に、彼女の特別にならんと猛る女であった。
樽見はしまむらが可愛くて仕方がない。しまむらといい感じになりたい。しかし、彼女もまた不器用なのであった。

▲このガタガタな誘い方にとんでもない旨みがある。多分樽見もしまむらに出会う前はこうじゃなかったはず。(安達としまむら 5巻)
一度、樽見がしまむらを祭りに誘った時の話はすごかった。
たまたまお祭りで屋台のバイトをしていた安達は、お祭りデート中の樽見としまむらを目撃。命に関わるほどの致命傷を負った。この時の安達の"狂い"は「しまむらの刃」として今でも語り継がれている。

▲ショックを受け過ぎて安達がダンゴムシのようになってしまった(安達としまむら 5巻)
最終的に樽見が選ばれることはなかった。しまむらの心には既に安達がいたからだ。
最後に樽見は、画材道具を携えてしまむらを冬の河原へ呼び出した。そこで安達のことを聞き、己の敗北を悟った彼女は涙を流しながらもう自分のものにはならない最愛の人の姿をキャンバスに描き続けた。こうして、樽見の恋は砕けて消えた。
最後に
どのCの女たちも、ついにその恋が成就することはなかった。
では彼女たちは負け犬だったのだろうか?
否。彼女たちは誰よりも賭けたのである。誰よりも追いかけたのである。誰よりも生きたのである。
それが誰よりも眩しかったから、きっと私たちの星空で輝き、語り継がれているのだろう。今でもまだ、輝き続けている。





