天子様の御膝元から数えて三つの宿場町。入り江を見渡す街道沿いには二階造りの茶屋が軒を連ねて並んでいる。そこから少し外れた高台に、構えは粗末な簾だが、どこよりも客でにぎわう茶屋が一軒。
「どうも~! またのお越しを~!」
雲一つない晴れ空のように明るい声を響かせるのは看板娘のカメである。この茶屋で働きはじめて早一年。お茶をこぼすは、皿は割るは、最初のひと月はよほど店主も追い出そうかと頭を悩ませたのも、今となっては笑い種である。一杯の茶を飲んだだけでも、その客の背中が道の角に消えるまで見送る健気な笑顔が噂となるのに、そう長い時間はかからなかった。今では旅人たちの間でも、この茶屋を「カメ屋」と呼ぶほどの人気を博している。
今日も今日とて、カメは茶を出し、団子を配って、客の四方山話に相槌を打っていた。昼四つも過ぎて、ようやく客足が落ち着いたころ、店主からは「そろそろ休んだらどうだい」と声がかかる。
しかし、カメは意気軒昂、
「いえいえ! 呼び込みでもしますから!」
と応えた。その威勢の良さは、客たちも思わず相好を崩すほど。
しかし、そんな時、ふと胸をくすぐる涼やかな響きが近づいてくる。
ちりん、ちりん。
それは風鈴の音だった。文を運ぶ飛脚がやってきた知らせである。
カメの顔がにわかに輝いた。店前に飛び出したかと思うと、諸手を挙げて飛脚を出迎える。相手も慣れた様子で、
「はい、いつものいい人からだよ」
と文を差し出してきた。
「ありがとっ!」
カメはそれを受け取るやいなや、ぐっと鼻先に押し付ける。紙に染み込んだ仄かな伽羅の香り、夜明け前を思わせる澄んだ墨香 。開かずとも分かる。大奥の御祐筆を務める友人、アサからの手紙だった。
ちりん、ちりん。
風鈴を鳴らし去り行く飛脚を見送っていると、カメは自然と天秤の音を思い出した。それは一年ほど前、アサと共にお勤めに上がった大奥で耳にした響き。化け物が現れ、それを退治した一人の薬売りが、不思議な形の天秤を携えていたのだ。その天秤の両腕には鈴が付いていて、天秤が傾くたびに凛とした音を鳴らした。
あまりに短く、それゆえ忘れ得ぬ大奥での思い出。とはいえ、すべてが過去になったわけではない。アサとは今でもこうして文のやりとりをしている。一つ困ったことがあるとすれば、アサの手紙は容易には読めないということだった。大奥の内で起きたことは他言無用。ゆえに、アサの手紙は大奥にいた者でなければ分からない言葉遊びやなぞかけで書かれている。じっくりと腰を据えて読まなければならない。
文を抱え、嬉々として店に戻ったカメは、店主と目が合った。しかし、カメが口を開く前に、店主は御客たちに向かって言う。
「よかったなぁ。店主直々に、茶を運んでやろうじゃないか」
客からは一斉に不満の声が上がるが、カメに向けられるまなざしは一様に優しい。カメは彼らの厚意をありがたく受け取り、店の裏手に回った。
手紙を開くと、流麗な筆づかいが紙面を踊っている。カメはアサの手の動きを思い出すように、その文字を指でなぞった。うまく呑み込めないところは何度も筆跡をたどりなおし、すると次第に彼女の声が耳元に響く。
ねえ、カメちゃん。
この前、大奥で「花見」をしたの。
■
事の始まりは、壊れてしまった長局向の修繕だった。
御台様の御産と共に起きたモノノ怪騒ぎは、あれほど頑強に思われた「女の城」に大小様々な爪痕を残した。長局向の柱や廊下には痛ましい亀裂が刻まれ、屋根が崩れて野晒しになった部屋もあれば、床が抜けて足元の大池に沈んでしまった部屋もある。
雨風を凌げるようにと、ひとまずは建物の修繕が最優先で進められた。アサは御祐筆として、修繕に係る膨大な帳簿、大名の方々から押し寄せる寄付の書状、普請で大奥に立ち入る大工への食事の手配書に至るまで、書類を朝から晩まで捌き続けた。紙をめくりすぎたのか、ついには指の腹から血が滲み、一睡もすることなく三度朝日が昇るのを見た時には、アサも音を上げそうになった。
それでも、甲斐あって長局向は無事に元の姿を取り戻した。壊されずに済んだ箇所と真新しい箇所が斑模様をなしてはいたが、もとより大奥は度重なる火事や大風で壊れては建て直されることを繰り返している。喉元を過ぎてしまえば、此度の損害も大奥に刻まれた無数の傷痕の一つに過ぎない、と思えてくるのだから恐ろしい。
しかし、アサもようやく茶を飲むくらいの余裕ができた頃、突然御年寄のボタンに呼び出された。その表情を見て、どうやらまた問題が起きているということは、即座に察せられる。実際、ボタンは前置きもなしに、こう切り出したのだ。
「お金が足りないのです」
帳簿を付けているおアサさんなら、薄々気づいていると思いますけれど、とボタンは付け加えるが、正直なところアサはあまり腑に落ちなかった。当然、長局向の修繕でかなりの出費があったことは把握していたが、同時にそれが先代御年寄の歌山から始まる積金によって賄える範囲であったこともまた、知っている。
その上で「足りない」と言うことは、
「……何か、まだ必要なものが?」
「心です」
「心……?」
「奥女中たちの着物や化粧道具のことですよ」
アサはますます話が見えない。しばらく考えを巡らせていると、ボタンが不意に苦笑を漏らし、
「あなたもそんな顔をすることがあるのね」
と呟く。アサは戸惑いながら、考えていたことをそのまま白状せざるを得なかった。
「モノノ怪の騒ぎで奥女中たちが持ち物を失くしたことは知っておりますが、心とは……」
「がらんとしたあなたのお部屋にだって、傘を持った人形がいるでしょう。それは大切なものではなくって?」
「……!」
「まあ、皆が皆、思い入れがあるわけではないでしょう。されど、普段の着物や櫛も、美しくありたい、天子様の目に留まりたいと思う者たちにとっては、大奥で生きる上での大切な支えです」
そう言われて、アサは大奥に来たばかりの頃の記憶が鮮明によみがえり、顔が火照る。まさに大切な友人であるカメの心が、櫛だったではないか。失ったものの重みは人それぞれ異なる。自分が平気だったからと言って、皆が平気なわけではない。建物を直しただけでは、大奥は元通りにはならないのだ。
「しかし、一人一人に好きなものを買い与えるわけにもいきません。それゆえ、どうしたものかと考えていたのです。あなたの知恵を貸してもらえないかしら」
ボタンはそう言って真剣なまなざしでアサを見つめてくる。
奥女中たちへの心づかいも足らぬ自分にできることなど……と口にしかけて、ふと頭をよぎったのは、やはりカメのことだった。彼女が大奥を去る時に、アサは櫛を贈ったのだ。元来そういった装身具に関心はなかったから、選ぶのには難儀した。それでも友の旅立ちに、せめてもの餞となれば、と心を込めたのだ。
「……手放す、というのはいかがでしょうか」
そして、そんな言葉が口をついて出る。
「失ったものがそれぞれ異なるように、与えることができるものもまた異なるはずです。皆が互いに持ち物を手放し、譲り合えば……」
「つまり、奥女中の市を開くということですか」
アサが頷くと、ボタンは立ち上がった。
「付いてきてくださいな。相談したい方々がいます」
■
大広間にずらりと並ぶ御中臈の姿は壮観だった。ひとりひとりの美しさは言うまでもなく、身なりやふとした眼差し一つとってみても、奥女中たちの上に立ち、それぞれの家柄を背負う者としての自信に満ちている。それでいて、互いをけん制し合うような雰囲気もなく、御中臈の間には絶えず優しい風が行き交っているように感じられた。
また、その背後、一段高い上段之間には御台様の姿もあった。正直なところ、蛇神の一件から人が変わったようだとアサは思っている。以前は行事に参加されているのを見ても、どこか心ここにあらずといった様子だった。それが今では御中臈にもましてしゃんと背筋を伸ばし、泰然としている。長局向の修繕に駆けまわっていた奥女中たちの多くから、御台様とすれ違った時に励ましの声をかけていただいた、という話も聞いた。モノノ怪騒ぎの後、大奥がすぐに立ち直ったのも、御台様のこの落ち着きがあったからではないか。
いずれにしても、ボタンはまず彼女たちにアサの発案の伺いを立てることにしたのだった。御中臈や御台様と向かい合うようにしてボタンが座り、その後ろにアサが控えている。一通り説明が終わると、まず口を開いたのは、フキだった。
「ボタンさんの気がかりとしては、結局何かを譲るのは位の高い者たちばかりではないか、ということ?」
「譲り合うと言っても、ない袖は振れぬものです。もちろん、私も大友家の持ち物はできる限り差し出そうと思いますが、それでは足りないでしょう」
確かに、大奥に奉公してまだ日の浅い者や御目見え以下の女中たちは、もとより持っている物が少ない。市を開いて懐を痛めるのは、第一にここに集まっている方々に他ならないだろう。
すると、御中臈のキヨが隣のスマと顔を見合わせる。
「ご心配には及びませんよ。ねえ、スマさん」
「もともと、わたくしたちにも何かできることはないかと話し合っていたのです。余計な衣装櫃が減って、かえって清々いたしましょう」
御中臈のタケもまた、同意するように頷くと、こう言った。
「父の屋敷に置いてあるものを持ち込んで良ければ、さらに品が増えるのですが」
すると、ボタンは少し驚いた様子で、
「そこまで大きな話にするつもりは」
と言う。フキは小さくかぶりを振った。
「良いではありませんか。普段は我々が背負っている御家です。時には、御家に甘えてもよいでしょう。幸い、時田家は呉服屋の伝手もありますから、市中の蔵に眠っている服や反物を募ろうではありませんか。大奥に娘を奉公に出している者や、かつて奉公をして市中に戻り親となっている者も少なくありません。きっと、力になってくれるはずです」
「親心、ですか」
「ええ、そういうこと」
フキが笑みを浮かべ、ボタンもまた微笑みを返す。これでいよいよ市を開く目処が立ってきた。アサは早速奥女中たちから集められるものの胸算用を始めるが、不意に上段之間から、「それは困ります」と声を響いた。
思わず、皆が息を呑む。御台様は一同の反応を眺め渡すと、くすっと肩を揺らして、こう言った。
「天子の家は、日の本に生きる全ての者の親も同然。我々だけ何もしないのでは、名折れにございます。大奥の市は御納戸払いも兼ねましょう」
御納戸払いとは、一年の終わりに天子様の持ち物が奥女中たちに下賜される行事のことだ。御台様も献上された貴重な衣服や工芸品を配ることになる。御中臈たちから譲られる物に増して、貴重な品々が市に溢れることになるだろう。
「お心遣い、痛み入ります」
ボタンが首を垂れると、御中臈たちも向き直って、同じく御台様に叩頭した。
すると、御台様は最後にこう付け加える。
「あと一つ、皆様に頼みたいことがあるのですが」
■
「こりゃ確かに、花見だ」
長局向の中庭を眺め渡しながら、アサの隣で広敷番の坂下がしみじみと呟いた。
奥女中たちが皆何かを持ち寄り、譲り合って、失ったものの代わりとする。そんな大奥の市を開くにあたって、御台様が一つだけ条件を付けた。それは、市自体を「花見」の会にするということ。とうに本物の桜は散っているのだが、その代わり、市に出される着物や布、そこに織り込まれた色とりどりの花を観て楽しみましょう、と。
「梅、桃、桜に、菊、菖蒲か……まことの花見ではありえん光景だな」
アサたちの目の前には、まさに百花繚乱の景色が広がっていた。花柄の打掛や反物が青空のもと所狭しと並べられ、優しい風にそよいでいる。その上、一つ一つの「花」の見事なことは言うまでもない。その多くが御台様や御中臈の方々のために誂えられたものばかりで、これほど見事な品々が一堂に介することは、百五十年と続く大奥の歴史においても初めてではないか。
「わたしも、まさかこんなことになるとは」
アサは思わず、安堵とも感嘆ともいえぬ深い溜め息を漏らす。ちょっとした思い付きが大奥全体を巻き込んだ行事になってしまった。せめて言い出した責任は取らねばと、この花見の仕切りはアサが自ら引き受けたが、ここしばらくは昼も夜も花見のことばかり考えていたような気がする。中庭の周囲に幔幕を張り巡らし、季節の移ろいも考えて打掛や反物を配置した。庭の端には奥女中たちが祭り気分を味わえるように屋台を用意して、御仲居には花見弁当を用意させる。大井戸回りの祭壇には御次が三味線や舞の余興をするための緋毛氈を敷いて、庭を眺め渡せる長局向の一の側の廊下に、天子様や御台様のための観覧席を設けた。あれを用意しなければ、これも必要だ、と考え始めればきりがない。普段、奥女中たちを差配するボタン様はこんなことをしているのか、とその苦労の一端を味わったように思う。
当然ながら、準備の多くは奥女中たちの手を借りたが、力仕事は男衆にも随分と助けてもらった。とりわけ坂下が率先して皆をまとめてくれたおかげで、花見会場の設営は無事に終わったと言えるだろう。
本当にお世話になりました、と改めて頭を下げると、
「なあに、勤めを果たしたまで! 腰さえ悪くなければ、若いもんには負けんのだ!」
と坂下は胸を張る。そして、ふと中庭を眺め渡すと、じつに優しい声音で呟いた。
「あの騒ぎが嘘のような景色ではないか。大奥に、まだわしの知らぬ顔があるということは、なんとも嬉しいことだよ」
それからしばし、アサは坂下と共に花を眺めた。あたりには布から染み出した様々な薫香が漂い始め、余興の準備にかき鳴らされる三味線や琴の旋律からは宴を待ちきれぬ奥女中たちの喜びが滲んでいる。
そして、不意に、「花」の垣根をかいくぐり、二つの小さな影がこちらに駆けてくるのが見えた。溝呂木家の双子、二日月と三日月がアサの前までやってくると、息を弾ませ、尋ねてくる。
「「おアサ様、ですよね!」」
「は、はい」
「「ありがとうございますっ!」」
彼女たちを儀礼の場で見かけることはあっても、こうして直に言葉を交わしたことはなかった。突然のことに戸惑っていると、双子の内の片方が言う。
「見渡す限りの花を、いつか父様や三日月と共に見てみたいと思っていたのです! でも、これは……わたくしが思っていたものよりも、ずっと、ずーっと素晴らしいものにございます! ですから、この花見を用意してくださった方に、お礼を申し上げたかったのです!」
そして、もう片方の子が言った。
「夢の中を歩むような心地がいたします!」
その顔に浮かんだ満面の笑みを見た時、アサは思わずにはいられなかった。
ああ、よかった、と。
決して間違いではなかったのだ。季節を過ぎた大奥に、二度目の花が咲いた。本物ではないけれど、本当に見事な花が咲いたのだ。
それから、アサはこうも思った。
この大奥に、苦労も悩みも悲しみも決して尽きることはないだろう。しかし、それでもきっと、わたしたちの笑みが絶えることもまた、ないだろう、と。
ねえ、カメちゃん。
あなたにも、この花を見せてあげたかったな。
■
カメはアサの手紙を読みながら、花見の光景がありありと目に浮かぶようだった。中庭に咲き誇る偽物の花も、それを眺める美しい奥女中たちも、そしてその中にいる、大切な友人の笑顔も。
大丈夫、ちゃんと見えたよ。
アサへの返事は、まずその言葉から始めようとカメは思う。
それから、長い長い手紙の末尾に、アサは一つだけ心残りを記していた。それは三度、妖の騒ぎから大奥を救ってくれた薬売りを花見に呼べなかったこと。方々に手をまわして探させたが、見つからなかったらしい。もしもカメちゃんのお店にあの方が立ち寄られたら、よろしく伝えておいてくれるかしら、と。
そう言えば、カメ自身もまた、大奥でモノノ怪から救ってもらったことのお礼を告げずじまいだったと気づく。いつか、どこかで会える日は来るのだろうか――……と、考えていた、その時だった。
ちりん。
あの音が聞こえて、カメは慌てて店の表に戻る。しかし、その姿はどこにもない。店主はきょとんとして、
「休憩はおしまいかい」
と尋ねてくる。
「あのっ! すごくかっこいい薬売りのお客さん、見ませんでした!?」「ん? ああ、えらい変わった風貌の男の人が、カメちゃんお手製の朴葉味噌のおにぎりを――」
すべてを聞き終える前に、カメは店を飛び出した。
道に薬売りの姿はない。
大通りに繋がる曲がり角まで走るが、やはりその姿は見つからなかった。
ただ、カメはそれでも、どこまでも続く道に向かって、どこかにいるはずのあの人に向かって、精いっぱいの声で叫んだのだった。
「薬売りさーんっ! ありがとうございましたーっ!」
すると、どこからか風に乗って、あの凛とした音が響いたのだ。
ちりん、ちりん、と。





