「渋谷がつまらなくなった」
「東京の街はどこも金太郎飴みたいになった」
そんな言説をよく聞く。
ある人はジョージ・リッツァの「マクドナルド化」を、ある人は三浦展の「ファスト風土」を引き合いに出しながら、資本主義がパブリックライフを駆逐した、と嘆く。
そんな論評めいたものでなくとも、巨大資本のデベロッパーが感じの良い街角を壊し、そこに巨大ビルを建てる。中に入るのは、どこにでもあるチェーン店やブランドショップ。結果として、どこも似たような「ほにゃららヒルズ」や「ほにゃららミッドタウン」になっていく。
そんな感覚を、多くの人が共有しているのではないか。
だからこそ、そういう施設がコケると、みんな少しうれしそうにする。汐留、東急プラザ銀座、サクラステージ……。“廃墟観察系”のYouTuberがハイエナのように群がって再生数を稼ぐ。そのうち「ハラカド」あたりも格好の標的にされる可能性すらある。
一方で、明確な商業目的を持たない空間——MIYASHITA PARKの屋上、ソニーパーク、うめきたなどは「これからの都市のあり方」として手放しに礼賛される。
「ほら見ろ、画一的な開発は終わったんだ」とドヤ顔で語るのは簡単だ。
しかし、そんな空間は、他の一等地で死ぬほど稼いでいる事業者の「余興」に過ぎない。事業者がどれだけ街を面白くしようと知恵を絞っても、無駄に終わるケースはごまんとある。
もちろん、ワクワクするような個性的な都市開発には大賛成だ。だが、僕は根本的な疑念を拭えない。
つまらなくなったのは、本当に渋谷なのだろうか。
つまらなくなったのは、僕たちのほうではないのか。
余白を求めながら、ノイズを許せなくなった僕たち
「渋谷に座れる場所がなくなった」
「昔はたむろできる場所があったのに……」
そう嘆く声もよく聞く。
渋谷には無数のカフェがあるはずなのに、そのほとんどすべてが常に混雑している。
だがその一方で、外国人が道端に座り込んで飲食物を広げている動画がSNSに上がれば、「迷惑外国人」「郷に入っては郷に従え」と叩く。
チーマーを駆逐し、渋谷ハロウィンを縮小に追い込み、お金のない若者たちはMIYASHITA PARKに集まるしかない。そして、かつての宮下公園からホームレスを一掃したのも僕たちだ。
たぶん、どれも「渋谷のため」にはなっているだろう。しかし、本質はそこではない。
僕たちは「街に余白がない」と嘆きながら、その余白に現れるノイズや逸脱を許容できない。座る場所がほしいと言いながら、地べたに座る人を嫌う。偶然性がほしいと言いながら、予測不能な他者を嫌う。
結局、自分たちで自分の首を絞めているのだ。
本質的に、僕たち自身がつまらなくなっているから、豊かなパブリックライフなど生まれようがない。啓蒙すべきはデベロッパーではなく、僕たち自身である。
迂回する力を失ったのは誰か?
今の街にはワクワク感が足りないのではないか、という声もある。
ワクワク感ってなんだ? と考えるが、たいていの場合、それは「偶然の出会いのある街にしなければ」ということだろう。
それはその通りだと思う。
でも、その一方で、会社の備品はアスクルで買い、日用品はAmazonで済ませるのが僕たちの日常だ。店を探すときはInstagramで見て、TikTokで知って、Googleマップで星の数を確認してから行く。
つまり、僕たちは日々の消費から偶然性を取り除いている。
わざわざ街を歩いて、知らない店に入って、失敗する。そういう経験を面倒だと思うようになった。タイパとコスパを優先し、外れを避け、最短距離で「正解」にたどり着こうとする。
セレンディピティなんてものは「あればうれしいスパイス」に過ぎず、なくても一向に困らないのだ。
その結果、庶民的なビジネスの足元は細っていく。小さな店は成り立ちにくくなり、街中がハイエンドな店ばかりになっていく。
吉江俊氏は、まちづくりには「迂回する経済学」が必要だという。それには僕も大賛成だ。
しかし、肝心の一般人が求めるのは近道ばかりである。どれだけ知恵を絞って面白い空間をつくっても、受け手である僕たちがつまらなければ機能しない。
いつのまにか「ついでに消費する街」になった
そもそも、僕たちは圧倒的に出歩かなくなった。東京都市圏のパーソントリップ調査によれば、現代の若者は高齢者よりも外出しない。
自宅にはゲームがあり、YouTubeがあり、Netflixがある。音楽も映画も買い物も、人と会うことすら、ある程度は家の中で完結する。
外出するときは、近場をぶらぶらするというより、目的地を決めて遠くまで行く。日常的な外出は縮み、特別な外出は大きくなる。外出の二極化である。
そうなれば当然、渋谷は「若者の街」ではなく、街に来てくれる「オフィスワーカー」や「外国人」のための街になっていく。
特に近年の渋谷はオフィス街化が進んだ。
「渋谷にカルチャーを求めてわざわざ来る人」ではなく、「仕事のついでに消費する人」が膨れ上がりすぎたのだ。
渋谷の文化に興味のないビジネスパーソンに心臓をつかまれた結果、街の輪郭はぼやけていった。
彼らは街を迂回などしない。最短ルートで駅へ向かい、電車に乗って帰るだけだ。疲れているのだから、仕方がない。仕事帰りの人に「もっと街を楽しめ」と言うのは酷でもある。
でも、その積み重ねが街をつくる。
渋谷にわざわざ来る人ではなく、渋谷にいるついでに消費する人が増えれば、街はその人たちに最適化されていく。
今の庶民にとっての手頃な「おもしろさ」とは、映える飲食店、期間限定のポップアップイベント、そして渋谷スカイからスクランブル交差点を見下ろすことくらいだろう。
子育て層にとって、いまや渋谷の混雑は地獄でしかない。郊外のイオンモールのほうが、よっぽど快適で合理的だ。
街を面白くする主体は、デベロッパーだけでなく、そこを歩く僕たち自身でもある
都市の面白さは、最短距離では生まれない。
少し遠回りする。知らない路地に入る。目的のない時間を過ごす。予定外の店に入る。誰かの会話が耳に入る。自分とは違う人の存在を、なんとなく受け入れる。
そういう迂回の中に、街の面白さは宿る。
しかし、いまの僕たちは迂回が苦手だ。
近道を求める。検索する。比較する。失敗を避ける。混雑を嫌う。並ぶのを嫌う。知らない人が多い場所を嫌う。うるさい場所を嫌う。けれど同時に、「街にはもっとワクワクが必要だ」と言う。
それは、かなり都合がいい。
面白い街をつくるには、面白い開発だけでは足りない。それを使いこなす人間の側にも、面白さが必要になる。
下北沢のBONUS TRACKのように、面白がる人が集まる場所はまだ強い。でも、面白がる人そのものが細っていけば、どれだけ良い空間をつくっても街は痩せていく。
だから渋谷がつまらなくなったと嘆く前に、少しだけ考えたい。
自分は渋谷を面白がる力を持っているのか。街に対して、ただ消費者として文句を言っているだけではないのか。
かくいう僕も、かなりつまらない。
人の多いところには行きたくない。並びたくない。失敗したくない。知らない店に入るより、評価の高い店に行きたい。疲れていたら、最短ルートで帰りたい。
だからこそ、日々練習するしかないのだと思う。
パブリックライフの楽しみ方を。
自分の退屈さを、街のせいにしないことを。
渋谷が何をしてくれるかではなく、渋谷に何ができるか。
街を面白くする主体は、デベロッパーだけではない。その街を歩く、僕たち自身でもある。





