今回のICCをめぐる外務報道官談話では、日本語版は「今回の措置は大変残念です」、英語版は the announced measures are very unfortunate となっている。ここだけを普通の英和辞典で見れば、unfortunate は「不運な」「残念な」であり、regrettable より軽そうにも見える。
しかし、外交文書の unfortunate は、日常英語の「運が悪い」をそのまま当てはめて読むべき語ではない。数世紀かけて形成された外交独特のレジスターの中で使われる、慣例的な否定評価表現だからである。
このことを理解するには、外交英語そのものの成立史を見る必要がある。
近世ヨーロッパの外交共通語は、もともとラテン語だった。それに代わって17世紀以降、フランス語が外交界の共通語となり、18、19世紀にはフランス語が国家間交渉や条約の標準的言語として圧倒的な地位を占めた。1815年のウィーン会議最終議定書さえフランス語のみで作成されており、フランスが当事国でない条約にもフランス語が使われることがあった。
重要なのは、広まったのが単に「フランス語という外国語」ではなかったことである。外交官が身につけたのは、外交官らしく書き、外交官らしく話すための「型」だった。外交言語の研究においても、フランスおよび他国の官房で20世紀初頭まで用いられた外交言語について、その根をルイ14世宮廷の言語に求めている。外交言語は形式性、曖昧性、文脈依存性をもち、表面の言葉とは別に意味を読み取らなければならない「コード」として発達した、という議論がある。外交では、露骨に「あなたが悪い」「われわれは怒っている」と言わず、形式化された表現を通じて評価や警告の程度を伝える伝統が形成されたという話である。
18世紀プロイセン外交官僚制についての史料研究からも、この点をさらに具体的に示している。プロイセン外交官に要求されたのは、単にフランス語の文法を知っていることではなかった。官僚・外交官の採用と養成では le style françois、すなわち「フランス式の文体」が強く意識されていた。既存研究は、当時の style が正式な発話・文章における conventional form、つまり慣例化された書き方・話し方を意味していたことを、数十年分の公文書・採用史料から示している。フランス語は外交の伝達手段であると同時に、外交的行動様式を身につけるための媒体でもあり、そのフランス語外交文体が、フランス語の地位が英語に取って代わられたあとにも英語外交文体の中に残った。
この点の別研究でも、英語外交文体へのフランス語の影響を、単なる借用語の問題に限定していない。外交上の肩書、文書形式だけでなく、統語法、語彙、慣用句、フレーズそのものにフランス語のモデルが取り込まれたと論じている。そこで挙げられる典型例には、
I have the honour to inform you ― J’ai l’honneur de vous informer
It is understood that ... ― Il est entendu que ...
などがある。英語として文法的に完全に成立しているが、「外交官はこのように言う」という定型そのものがフランス語外交文体と並行しているのである。同論文は、英語の外交レジスターをフランス語の「ほとんどカルク(なぞり)」とまで表現している。もっとも、ここでいう「フランス語由来」は、unfortunate という英単語そのものの語源を問題にしているのではない。否定的な評価を、主体を前面に出さず、形式化された婉曲表現によって伝えるという外交レジスターそのものが、フランス語外交文化を基層として形成され、その型を外交英語がかなり受け継いでいる、という意味である。
この背景を踏まえて unfortunate の実際の用例を見ると、「辞書で意味の弱い単語を選んだ」というような話ではないことがわかる。国際司法裁判所(ICJ)の公式な英仏対訳には、英語の
It is unfortunate that ...
に対して、フランス語で
Il est regrettable que ...
が置かれている実例がある。2001年のLaGrand事件のShi副所長の個別意見でもこの対応が確認でき、2008年の申立書でも同様である。国際司法機関が公式な二言語文書で unfortunate と regrettable をこのように対応させている以上、外交・国際法レジスターにおける unfortunate を「unlucky=不運」に近い弱い言葉とだけ理解することはできない。
さらに古い例では、1946年の国連安全保障理事会第7回会合で、英語の It is a little unfortunate that ... に対してフランス語では Il est assez fâcheux que ... が対応している。ここでの fâcheux も「運が悪い」というより「好ましくない、困った、遺憾な」に近い評価語である。unfortunate が regrettable や fâcheux の機能領域に置かれていることが、実際の外交機関の英仏対訳から確認できる。
もっと決定的なのは、regrettable と unfortunate が同じ外交文書の中に一緒に出てくる例である。1938年、日本兵が南京の米国領事を殴打した事件について、日本政府が米国政府に示した回答の英訳には、
a most regrettable occurrence
政府として profound regrets を表明し、そして同じ事件を
this unfortunate incident
と呼ぶ、という三種類の表現が同じ段落に並んでいる。 これは非常に示唆的である。もし「unfortunate は regrettable より一段弱い」という単純な外交用語の階段があるなら、この文章は理解しにくい。むしろ三者は異なる役割を果たしている。regret は政府主体が遺憾を表明する行為に使われ、regrettable は出来事への評価、unfortunate incident はその出来事を外交的に呼称する表現として使われている。少なくとも、辞書の類義語を「強い順・弱い順」に一列に並べただけでは説明できない。
日本外務省自身の用法にも同じことが見える。2002年のイスラエルでの自爆テロについて、外務省は同じ談話の中で strong indignation を表し、行為を resolutely condemns と明確に非難したうえで、一連の事件について It is extremely unfortunate that ... と述べている。この unfortunate が外交英語における「最弱の言葉」であるはずはない。強い非難表現と同時に使えるからである。
ここから、外交文書を読む際の重要な区別が出てくる。unfortunate は確かに、condemn のような直接的非難語ではない。It is unfortunate that X happened という構文は、「われわれはXを非難する」と主体を前面に出すのではなく、Xという事態それ自体を「好ましくないもの」と評価する。したがって、語用論的には抑制された、非人称化された表現である。しかし、それと「unfortunate という単語は辞書的に意味が弱い」という話は別である。
欧州外交は、このように直接性を抑えること自体が長い歴史をもつ技法だった。フランス宮廷語から官房・外交文体へ、さらにヨーロッパ各国の外交実務へと広がり、外交の共通語が英語になった後にも、その語彙・句法・婉曲的な発話形式が残った。Arauczがいう「長い時間をかけて形成された、均衡のとれた、抑制された、穏健な語彙の蓄積」という特徴は、その歴史を端的に表している。したがって、今回のICC談話の
the announced measures are very unfortunate
を評価するときも、「なぜ regrettable ではなく、辞書でより弱い unfortunate を選んだのか」と問うのは適切ではない。問うべきなのは、談話全体としてどの外交的発話行為を選んだかである。
今回の外務省は、米国の制裁措置を condemn してはいない。protest とも言っていない。unacceptable とも言わず、措置の撤回を urge や call upon で要求してもいない。その意味で、談話全体が慎重で抑制的なのは確かである。日本語でも「大変残念です」にとどめ、英語でも very unfortunate としている。だが、その抑制性は、外務省が辞書を開いて「不運」に近い最も弱い単語を探し出したから生じているのではなく、unfortunate という外交表現がは、それ自体が古くから外交・国際機関の文書で用いられ、フランス語の fâcheux や regrettable と機能的に対応しながら使われてきた表現だからである。そして、その背後には、フランス語を中心として数世紀かけて形成されたヨーロッパ外交文体――直接的衝突を避けつつ、言葉の形式と程度によって評価、警告、距離を伝える文体の歴史がある。
今回の very unfortunate が政治的に十分強い表明だったのか、もっと踏み込んで米国を非難すべきだったのか、という批判は当然成り立つ。しかしその批判をするなら、「unfortunate は、たまたま運が悪かったという程度の弱い語だから」ということではなく、なぜ日本政府が condemn、protest、unacceptable、あるいは撤回要求という別の外交的行為を選ばなかったのか、という水準で論じるべきである。そこを区別しないと、外交文書の慎重さを批判しているつもりで、実際には外交文書という特殊な言語体系そのものを読み違えることになる。





