※以下、映画の根幹部分に関するネタバレあり
10年に渡って攻防が続いたトロイア戦争を終結させるために、オデュッセウスは巨大な木馬を用いた計略を考えついた。それは女神アテナに対する供物、そして和平の証として浜に残された。これを見つけたトロイアの人々は、城塞内へと木馬を引き入れ、アテナ神殿の目の前に設置した。
捧げ物の皮を被った時限爆弾は、新月の夜に起爆した。木馬に潜んでいたオデュッセウスたちは中から飛び出し、トロイアの内側から城門を開くことに成功する。こうして外で待ち構えていたギリシャ連合軍は大挙して内部へと侵入した。アガメムノン率いる兵たちは破壊と殺戮の限りを尽くした。こうして交易で栄えたトロイアが滅亡したのであった。
オデュッセウスの計略は、人の心も神の心をも裏切るものであり、これまでの世界には戻れない不可逆な作用をもたらした。トロイアを焼くことは、世界に火をかけることであったのである。
トロイアが陥落したのち、ギリシャ沿岸部各地では「海の民」と呼ばれる人々が襲来することを恐れるようになっていた。彼らは「ゼウスの掟」を破り、交易を途絶させ、暗黒時代をもたらす人々だと認識されていた。しかし、それはオデュッセウスたち自身だったのであった。
「ゼウスの掟」によって成り立っていた文明は崩壊し、暗黒時代の到来は避けられなかった。トロイア戦争の伝説は、文字なき時代に歌を通して後世にまで伝えられたのであった。
映画「オデュッセイア」では、一連の古典作品には書かれていない独自の解釈が随所で打ち出されている。
映画を鑑賞した筆者は、作品のまとめ方に大いに唸らされた。いっぽうで、上記の解釈は決して突飛なものではない。というのも、「海の民」、文明の崩壊、そして暗黒時代といったキーワードは、実際のところトロイア戦争の伝説と密接に関連づけられてきたためである。これらを結びつける鍵となるのは、東地中海における紀元前1200年前後の情勢である。すなわち、青銅器時代の終末期として位置付けられている時代である。
この記事を書くきっかけとなったのは、映画を観た親友の「それぞれのキーワードは耳にしたことはあるが、それらがどのように関わっているのか分からない」という旨の言葉である。筆者の肌感覚としても、こうした思いを抱く方々は少なくないのではないかと感じた。
もちろん、それぞれのキーワードについて把握していなくとも、この映画は十分に楽しめる大作になっているはずである。ただ、作品の舞台として設定されている青銅器時代末期に関する実際の状況を押さえておけば、クリストファー・ノーランの打ち出した解釈をより深く味わうことができるのではないかとも思う。そこで本記事では、映画「オデュッセイア」の根幹部分と関連する事柄について、考古学や歴史学の研究成果を踏まえながら解説することとする。
1 後期青銅器時代の東地中海
まずは映画の舞台として設定されている時代を確認しておこう。詳しくは後述するが、トロイア戦争もしくはそれに類する戦いがあったとするならば、それは青銅器時代の終わり頃であったと考えられている。
この時代は、専門的な用語では後期青銅器時代と呼ばれる。エーゲ海を含む東地中海では、だいたい紀元前1600〜1200年の400年ほどの期間が後期青銅器時代と呼ばれる。この時代は、前期青銅器時代と中期青銅器時代に続く、青銅器時代最後の時代である。なお、後期青銅器時代の後に続く時代は、鉄器時代と呼ばれている。
後期青銅器時代の東地中海周辺地域では、かつてないほど大きな勢力が誕生した。ギリシャ本土を中心として「ミケーネ文明」が栄え、アナトリア半島ではヒッタイト王国が台頭した。メソポタミアではミッタニ(ミタンニ)、アッシリア、カッシート朝といった王国が割拠し、アフリカ北東部ではエジプト新王国が繁栄した。古代東地中海の歴史において特に華のある時代の1つといってよいだろう。
たとえばエジプトでは、ハトシェプスト女王、アクエンアテン、ツタンカーメン、ラメセス2世などといった古代エジプト史でもよく知られる王たちが、この頃に君臨していた。世界史でも名高いエジプトとヒッタイトとの戦争、いわゆる「カデシュの戦い」が起きたのも後期青銅器時代のことである。
当時の東地中海一帯では国家を越えた交流が盛んに行われており、長距離交易も活発に展開されていた。取り引きされたのは多岐にわたる物品である。織物や多種多様な容器、装身具などといった製品、ワインや香油といった液体類も国際的にやり取りされていた。加えて、原材料も重要であった。たとえばキプロス島で産出する大量の銅、エジプト南方で採れる莫大な金などは、そうした資源を自国で入手できない近隣国家から強く求められた。紀元前14世紀後半にトルコの南方に沈んだいわゆる「ウルブルンの沈没船」の調査の結果、当時の東地中海交易を象徴するような積載物の数々が発見されている。
大国の支配者同士で交わされた書簡も発見されている。特に有名なのは、エジプトで見つかった粘土板文書群、通称アマルナ文書である。こうした資料からは、贈り物の交換や政略結婚によって、王室間で密接な関係性が構築されていたことがわかる。
当時の東地中海で栄えたのは大国だけではない。例えば現在のシリア北部沿岸に存在したウガリト王国は、交易拠点としての立ち位置を築いて繁栄した様子がわかっている。また後で述べるが、トロイア戦争の舞台となるトロイアも、後期青銅器時代に交易で栄えた王国だったのではないかと指摘されている。
2 トロイアとその遺跡
トロイアが具体的にどこに位置するのかについては、古代の段階から色々な説が出されてきた。一般的に現在トロイアと同定されているのが、トルコ北西部のエーゲ海沿岸、トローアス(トローアド)と呼ばれる地域に存在するトロイ遺跡である。
トロイ遺跡は、ヒサルルクと呼ばれる丘に築かれた城塞と、その南のなだらかな斜面に広がる集落からなる。発掘調査の結果、この遺跡では約4000年に及ぶ活動の痕跡が見つかっている。このうちトロイア戦争について考えるうえで重要となるのは、後期青銅器時代に対応する第VI層と第VIIa層である。
実際のところ、この遺跡がトロイアであること示す決定的な証拠は発見されていない。ただ、他に有力な対抗馬となりうる遺跡があるわけではないため、現状で最有力候補であることはたしかである。
トロイ遺跡の発掘調査を本格的に開始したのは、『古代への情熱』という著作でもよく知られるハインリッヒ・シュリーマンである。シュリーマンの発掘は1870年に開始した。彼の調査で見つかったものの中では、特に「プリアモスの財宝」と呼ばれる豪華な遺物群が有名である。映画では描かれなかったが、プリアモスはトロイア戦争が勃発した際のトロイア王である。しかし、この遺物群はトロイア戦争が起きたといわれる時代を遥かに遡る、前期青銅器時代のものであることがわかっている。
ちなみにシュリーマンはギリシャでも発掘調査を実施している。彼は「ミケーネ文明」を語るうえで最も重要なミケーネ遺跡において、特に華々しい発見を成し遂げている。城塞の内側に位置する墓地ではまばゆい限りの黄金製品が見つかっており、その1つである通称「アガメムノンのマスク」は、文字通り「ミケーネ文明」の顔となっている。
(なお、このマスクがアガメムノンのものであることを示す証拠は皆無である。)
トロイ遺跡ではシュリーマンの調査の後も断続的に発掘が行われてきた。20世紀末にはドイツの考古学者であるマンフレッド・コルフマンが主導する調査がはじまり、大きな成果が挙がった。この遺跡を対象にした研究は、現在も活発に進められている。
3 貿易国家トロイア?
トロイ遺跡が後期青銅器時代においてどのような場所だったのかについては、激しい議論になってきた。大型の都市であったのか、それとも反対に都市と呼ぶに値しない規模のものだったのか。鍵になるのは、ヒサルルクの丘の南、すなわち城塞外に集落が広がっていたのかどうかという点であった。
現在では城塞外に集落があったことが判明しており、トロイ遺跡の往時の姿は、丘の城塞を含めて大きな広がりをもっていたことが明らかとなっている。その規模は、当時のトローアス地域では傑出する規模であったという。
トロイ遺跡は黒海方面とエーゲ海、そして地中海の結節点に位置する。そのため、後期青銅器時代にこの地に存在した国家が交易路を掌握することによって繁栄したと想定する研究者もいる。さらに、トロイア戦争もしくはそのモデルとなる戦いがあったとするならば、交易路を巡る対立が原因だったのではないかと指摘されることもある(ただしこの説を裏付ける証拠は存在しない)。
ところで、トロイア戦争が勃発したきっかけとしてホメロスの叙事詩で語られているのは、スパルタ王メネラオスの妻ヘレネがトロイア王子に奪われたことであった。この設定は、映画「オデュッセイア」でも踏襲されている。いっぽうで映画では脚色されている部分もあった。メネラオスの兄であるアガメムノンの本当の狙いが、トロイアが押さえている交易路を奪うことにあったという設定である。クリストファー・ノーランがオデュッセウスに語らせたこの内容は、上記のようなトロイ遺跡の往時の姿をめぐる学説が大いに反映されているといえよう。
ただ、この遺跡の評価については限界もある。まず、城塞外で発掘調査が進んでいる区画は全体のうちの一部であり、さらに堆積の残りが良好でないために、後期青銅器時代の集落が具体的にどのような姿をしていたのかはっきりとしない。また、城塞内の後期青銅器時代の遺構の残りもよくない。というのも、後世にここでアテナ神殿が建設される際に、中心部に存在した後期青銅器時代の痕跡が失われてしまったと考えられるためである。トロイ遺跡が重要な遺跡であることは明らかであるが、その実態をめぐる解釈には限界があることも、ここで付言しておきたい。
4 トロイア戦争と「暗黒時代」の到来
叙事詩が語るトロイア陥落はいつ起きたのか。その年代については、古典作品の著者たちが既に言及している。例えばヘロドトスの年代観によれば、それは紀元前1250年頃であったという。また、エラトステネスの勘定では紀元前1184年(1183年)となる。
トロイア戦争が実在した戦争だと認識している方も多いと見受けられるが、叙事詩に描かれたような戦争の存在を裏付ける証拠は、今のところ1つも見つかっていない。ただ、そのモデルになるような戦いがあった可能性は否定できない。もしそれがあったとするならば、いつのことだったのか。諸説あるが、それは後期青銅器時代の終わり頃だったのではないかと考える研究者が多い。発掘調査からわかる事実として、トロイ遺跡の第VIIa層で紀元前1200年頃に戦いが起きた痕跡が見つかっている(この解釈も一筋縄ではいかない)。
この頃、東地中海各地で大きな変化が起きていたことがわかっている。ギリシャでは「ミケーネ文明」を特徴づける各地の拠点である「宮殿」が壊滅に追い込まれる。アナトリアでは紀元前12世紀初頭にヒッタイト王国が忽然と姿を消す。レヴァント地域北部で栄えたウガリト王国もこの頃に滅亡した。その他、様々な遺跡において、紀元前1200年頃に被害を受けた痕跡が見つかっている。
こうした東地中海における一連の状況は、「紀元前1200年の崩壊」などと呼ばれる。そして、この紀元前1200年が、便宜的に青銅器時代の区切りとされている。したがって、「紀元前1200年の崩壊」=「青銅器時代の終焉」という認識が普及してきた。
紀元前1200年頃に起きた変化は、上記のような破壊を伴うような被害だけではなかった。本記事の内容に照らして特筆すべきは、それまでギリシャで記録を残すのに使われていた線文字Bが使用されなくなる点が挙げられる。
ギリシャにおける紀元前12世紀以降の数百年間の時期は、かつて「暗黒時代」と呼ばれることが一般的であった。映画でも何度か言及される重要なキーワードである。この言葉は、文字資料が後期青銅器時代と比べると極端に乏しくなることに由来する。ただ、発掘調査や研究の進展により、この時代にも光が差し込むようになってきている。そのため、現在では暗黒時代という名称はあまり使われなくなっており、代わりに初期鉄器時代と呼ばれるようになっている。
5 「海の民」の襲来
なぜ紀元前1200年頃に、東地中海周辺で大きな変化が生じたのか。長らくその原因であるとみなされてきたのが、「海の民」と呼ばれる人々である。「海の民」とは、紀元前1200年前後にエジプトの記録に残された、海と関連の深い外来勢力をまとめた呼称である。彼らの出身地についてははっきりとしないことも多いが、エーゲ海方面からやってきたのだと説明されることが多い。
エジプトと「海の民」との大規模な戦いの記録は複数残されている。具体的には、古代エジプト新王国時代第19王朝のファラオであるメルエンプタハ、そして第20王朝のファラオであるラメセス3世の治世に年代づけられるものである。特にエジプト南部のルクソール西岸にある建造物には、エジプトと「海の民」との激しい戦いの記録が文字と図像とで残されている。
とりわけ現在に至るまでの後世に強い影響を及ぼし続けているのが、ラメセス3世の治世8年の出来事が記されている碑文である。この碑文の内容に依拠して、「海の民」が東地中海一帯を席巻して各地を荒らし回った集団であると位置付けられることになった。すなわち、彼らは青銅器時代に終焉をもたらした存在だとみなされてきたわけである。
映画「オデュッセイア」でも、ギリシャ沿岸の人々が恐れる外来勢力として、sea peoplesないしpeoples from the seaという名称が言及されていた。吹き替えでは「海の民」で統一されていた(はずである)。これは、明確に上記の「海の民」を意識した名称である。
実際のところ、紀元前1200年頃の東地中海における変化は、必ずしも全てが「海の民」の影響によるものではないということがわかってきている。考古学的証拠を改めて検討すると、彼らの活動がこれまで過大評価されてきた状況が見て取れるのである。当時の社会で起きた変化の要因としては、気候変動や地震、内乱なども想定されるようになってきており、必ずしも外来勢力の侵略のような単純な要因だけで語ることはできない。
ギリシャにおける変化については、地震や内乱などの要因が注目されることが多い。映画の内容と反して、「海の民」のような外来勢力の影響はさほど重視されていないという点も補足しておこう。
なお、「海の民」の詳細については前に別の記事で4回に分けてまとめているので、ご興味のある方はご覧いただきたい→https://x.com/011235Moto/status/2027732235252863410?s=20
6 オデュッセウスと「海の民」
クリストファー・ノーランは、トロイアを壊滅させて帰還を目指すオデュッセウスたち自身が「海の民」であったという筋書きを打ち出しているが、実際に学界ではオデュッセウスと「海の民」との関連が指摘されることもある。
映画では割愛されていたが、『オデュッセイア』では、イタケーに帰還したオデュッセウスが身を偽って架空の来歴を語るくだりがある。そこでは、以下のようなエピソードが語られている。
・トロイア戦争が終わった後に、部下を集めて9艘の船でクレタ島からエジプトに遠征することになった。 ・エジプトにたどり着いたのち、部下たちがオデュッセウスの言うことを聞かず略奪や誘拐を行った。 ・これに対してエジプト側が反撃に出たことにより、多くの部下が命を落とし、生き残ったものは捕虜となった。 ・そして自身はエジプト王に助命され、エジプトで7年過ごして財をなした。
オデュッセウスが語るこの虚構のエピソードを、史実に基づいた記述なのではないかと指摘する声がある。つまり、かつて実際にエーゲ海の人々がエジプトに遠征して略奪を働いたことがあり、その出来事が元になっているのではないかというわけである。そしてこの略奪が、紀元前1200年頃の「海の民」の活動と関連づけられているのである。ホメロスの叙事詩の内容と「海の民」の記録とが実際に関連するのかどうか、その真偽のほどはたしかではないが、興味深い関連であることは事実である。
7 紀元前12世紀以降の東地中海
先述した通り、東地中海では紀元前1200年頃に大きな変化が起きた。ギリシャでは宮殿が崩壊し、さらに線文字Bが使われなくなる。その後、文字記録が再び本格的に現れるまで数百年要することになった。
しかし、この頃に東地中海周辺地域の何もかもが崩壊したわけではない。ダメージを受けなかった場所や、むしろ発展を遂げていった場所も存在していたことがわかってきている。人々は大きな変化の中でもたくましく生きていたのである。近年は、むしろこうした「崩壊」以外の側面に注目した研究も活発に行われている。
ギリシャでも同様である。宮殿が崩壊したとはいえ「ミケーネ文明」を特徴づける文化的な要素のいくつかはしばらく残っていた。この記事のアイキャッチに使っている土器は、まさに宮殿崩壊後に作られたミケーネ土器である。
最後に時代区分についても補足しておこう。紀元前1200年頃に青銅器時代が終焉するというが、これはあくまで便宜上の時代区分である。紀元前1200年頃に東地中海世界で生じた一連の変化が歴史の大きな転換点となったことはたしかであるが、実際に青銅器の利用を鉄器が上回るのは、その後しばらく時間が経ってからであった。
(ちなみに、ヒッタイトの滅亡によって同王国が独占していた鉄器の生産技術が拡散した、という普及した認識は見直す必要がある。ヒッタイトと鉄との関係については、『ヒッタイト帝国:「鉄の王国」の実像』(津本英利 著、PHP研究所)を参照されたい。https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-85457-1)
ホメロスの叙事詩が現在知られる形で成立したのは、紀元前8世紀のことであったと一般的に考えられている。そこに描かれた内容は、後期青銅器時代のエーゲ海を忠実に反映したものではなく、鉄器時代の要素が数多く含まれていると考えられる。
しかしその一方で、後期青銅器時代にまで遡りうる要素が散見されることは事実である。トロイア戦争やそれに類する戦いが実在したかについて明確な答えを出すことは困難であるが、いっぽうで、部分的に後期青銅器時代の記憶を文字に頼らず数百年間語り継いだことはどうやらたしからしい。
以上、簡単にではあるが、映画「オデュッセイア」で登場したキーワードに焦点を当て、考古学・歴史学の研究成果に触れながらまとめてきた。映画史に残るこの大作は、クリストファー・ノーランがホメロスの叙事詩と後期青銅器時代末期に関する研究成果を巧みに組み合わせて作り上げた傑作といえる。
まだまだ書くべきことはあるが、今回はこのあたりで留めておきたい。
また今後機会があれば、適宜公開できればと思っている。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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